近年は少なくなってきたが、プロ野球の長い歴史の中でアッと驚くようなトレードが何度も行われてきた。選手の野球人生を劇的に変えたトレード。週刊ベースボールONLINEで過去の衝撃のトレードを振り返っていく。 「巨人以外のユニフォームは着ない

85年にはリリーフとして4勝3敗2セーブの成績を残していた定岡だったが……
[1985年オフ]
巨人・
定岡正二⇔近鉄・
有田修三 ※不成立
鹿児島実高時代に、
太田幸司(三沢高)、
島本講平(箕島高)の系譜に連なる「甲子園のアイドル」として女子中高生に絶大な人気を博した定岡正二がプロ初勝利を挙げたのは、巨人に入団して6年目の1980年のことだった。この年、一気に9勝をマークすると、翌81年は11勝、さらに82年は15勝と、
江川卓、
西本聖とともに先発3本柱の地位を確固たるものとしていった。
だが、その後は2ケタ勝利から遠ざかると、救援に専念して4勝3敗2セーブの成績を残した85年。最終戦を終えて球場を後にしようとしていた定岡に、ファーム時代の監督でもあった岩本尭渉外補佐が声をかけた。
「オイ、定岡。明日ヒマだったらメシでも食わんか」
待ち受けていたのは近鉄へのトレード通告だった。当初、球団側はこのトレードを楽観視していた。すでに近鉄とは有田修三捕手との交換を軸に合意が済んでいる。定岡とてまだ28歳であり、ここ数年は精彩を欠いていたとはいえ、環境を変えればまだまだ力を発揮できると球団は考えていた。ところが、定岡は首をタテには振らなかった。
「正直言って迷いました。簡単に結論は出ないから……。野球をやめるのは、すごくさみしいし。結論を出すまでには、何日もかかりました」
のちに定岡はそう振り返っているが、通告から数日経った10月29日には「腹は決まっている」と、トレードを拒否して現役引退を決意していることを表明。翌日には渡辺一雄管理部長を話し合い、あらためて「巨人以外のチームならユニフォームを着ない」との意思を告げた。
その後、巨人は別の選手を放出
31日には長谷川実雄球団代表に呼び出され、正式に近鉄へのトレードを伝えられたが、定岡は「それなら退団する」と譲らず、両者の言い分は平行線のまま物別れに終わった。そして11月2日、再び長谷川代表から説得を受けた定岡は、これを拒否。最後は任意引退とすることで、両者は了解した。
その足でホームグラウンドの後楽園球場に足を運んだ定岡は、無人のロッカールームで荷物整理を始めた。公式戦が終了したのはほんの10日ほど前だったが、まさかこの年限りで現役を引退することになるとは、そのときは夢にも思っていなかった。
「巨人に反発? いえ、絶対にそんなことはありません。僕のわがまま。野球をやめるときは巨人のユニフォームを脱いだとき、と決めていたことを実行させてもらっただけなんです」
そう言い残して慣れ親しんだホームグラウンドを去った定岡が任意引退選手として公示されたのは、その6日後のことだった。
定岡の引退でミソがついた形となったトレードだったが、その後に巨人が
淡口憲治と
山岡勝を近鉄に放出することで、有田とのトレードが成立した。一方、定岡は選手としての最後のけじめをつけるべく、巨人の了解を得て翌春のドジャースのベロビーチキャンプに参加。プロに入って初めてのキャンプを過ごした思い出の地で、ユニフォームに別れを告げた。
写真=BBM