
清原の涙に会見場の雰囲気も凍りついた
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は11月20日だ。
甲子園の大舞台を我が庭のように闊歩した怪物が、その日、人目もはばからず大粒の涙を流した。
1985年11月20日、球界が、いや日本中が大騒動となった。
阪神の優勝、日本一で沸いたこの年。ドラフトの注目は「KKコンビ」と言われたPL学園高の
桑田真澄、
清原和博だった。1年夏から桑田がエース、清原が四番で甲子園制覇。以後、5季連続で甲子園に出場し、3年最後の夏で2度目の全国制覇を果たした。
ただ、高校球界の頂点を極めた2人の夢は同じだった。当時、まだまだ球界の盟主として圧倒的な存在感を誇った
巨人入り。ただ、皮肉にも、ともに1位の力があっただけに、どちらかの夢は絶対にかなわない……。
当初、あきらめたかに見えたのが桑田だった。10月23日、鳥取国体が終わった日、「100パーセント進学です。僕を指名しないでください」と言った。その後も「僕は早稲田に行きます(決定したわけではなく希望)。巨人は清原でいくのと違いますか」と発言。進学姿勢の証拠であるかのように野球部への退部届けも出さずまま、11月20日、ドラフト会議を待った。
当日、清原には6球団の指名が殺到する。しかし、当の巨人が指名したのは、なんと桑田だった。会場がどよめく中、一人冷静だったのは、清原の交渉権を引き当てた
西武の
根本陸夫管理部長だった。会議後には「お見事です。大したものです」とニヤリ。
このあたりの駆け引きは、当時は推測の域だったが、その後の話を集約すると、巨人は清原を1位、外れたら桑田を1位と考えていたが、西武(根本周辺)がその作戦の情報を聞きつけ、同様の戦略をとるという情報がもれた、あるいはあえて西武側から流した。
巨人はそれを知って、急きょ清原1位には行かず、桑田の1位指名に出たようだ。巨人・
王貞治監督も、おそらくぎりぎりまで聞かされていなかったのではないかと思う。そうでなければ、直前に「清原なら背番号1を譲ってもいい。フロントの要請さえあれば、僕が交渉に乗り出す用意もある」とまでは言わないだろう。
このすさまじい駆け引きを清原、桑田がどこまで知っていたかは分からない。というか、少なくとも清原は知らなかった。巨人が自分ではなく、桑田を指名したことに対し、会見の席で大泣きした。
進学を明言していた桑田は当然拒否と思ったが、急きょ行われた会見で「巨人の人に会いたいと思っていた」「できるならやってみたい」という発言があり、一気に「出来レースだったのか」という話になった。PL学園高の中村監督は「2人の友情を引き裂くかのような巨人の行為に憤りを感じます」と語っている。
このバタバタは、ある意味、一昔前の父性がもたらした混乱だった。要は子ども(若者)たちの人生を自ら信じる道に半ば強引に導き、「そのほうがいいに決まっている。黙って言うことを聞けばいい」という考えだ。対して、この男くさい事件の中で一番光ったのが、清原の母、弘子さんの母性の言葉だ。
「勝手に恋をして、失恋しちゃっただけです」
母は強しと感じたが、みなさんはいかがだろう。
写真=BBM