近年は少なくなってきたが、プロ野球の長い歴史の中でアッと驚くようなトレードが何度も行われてきた。選手の野球人生を劇的に変えたトレード。週刊ベースボールONLINEで過去の衝撃のトレードを振り返っていく。 巨人側が“拒絶反応”

入団発表の席で保科球団代表(左)とガッチリ握手する長嶋一茂
[1992年オフ]
ヤクルト・長嶋一茂⇔
巨人(金銭)
事の発端となったのは1992年10月9日だった。父親である
長嶋茂雄氏の巨人監督復帰を受けて、ヤクルト・桑原オーナーが「茂雄さんがどうしても一茂選手を欲しいというなら、考慮しなければいけない。親子の仲を裂くわけにはいかないでしょう」と発言。これに長嶋監督も「ありがたいお言葉です。ご縁があれば……」と敏感に反応して、そのムードが一気に高まった。
しかし、ここですぐに障害が発生した。受け皿である肝心の巨人側が“拒絶反応”を示したのだ。
「賛成しかねます。あくまで一般論ではありますが、親子が同じチームというのは、何かと都合が悪いのではないでしょうか。そう認識しています」
10月12日のことだった。球団トップである保科球団代表は、東京・内神田の球団本部で見解を出した。しかも同代表の実の息子が読売新聞社を受けたいというのを断固反対して、別の新聞社に就職させた“実例”まで挙げての強硬ぶりだった。
実はこれより前に、長嶋監督と球団トップとの間で極秘会談が持たれている。世論を中心に盛り上がるであろう一茂問題について、「球団としては、どうしても困る」という意見を長嶋監督に伝えているのだ。
桑原オーナーの発言に「ご縁があれば……」と答えているが、それ以前に、長嶋監督は球団からクギを刺されている。それでも意欲的にコメントしたのは、長嶋監督自身が「どうしても一茂を……」という気持ちが強かったからに、他ならない。
父の情熱で渡辺社長を説得
事態はこう着する。そもそも球団の反対というのは、イ
コール、読売新聞社・渡辺恒雄社長の反対でもあるのだ。このドンが首をタテに振らないことにはどうにもならない。
そうした中で「一茂を出す気があるのなら……。巨人もいらないと言っているし……」というノリで大洋、ダイエー、
ロッテがヤクルトにトレードを打診。巨人なら金銭トレードしかあり得ない。一方、これらの球団ならそこそこの選手が獲得できる。
その状況は混乱を極め、収拾がつかなくなり、結局一茂がヤクルト残留を直訴した。11月4日のことだった。
これで事態は沈静化。3日後の7日には、100万円ダウンの1100万円でヤクルトとの契約を更改している(金額は推定)。
「一から出直すつもるで頑張ります」
その翌日には田園調布の自宅から独立して引っ越し。意気込みを裏付ける“父離れ”を敢行した。
しかし、その一方では、長嶋監督が渡辺社長を説得していた。
現在、一茂は26歳。「再生可能なリミットは28歳。この世界で生きられるかどうか、どうしても自分の目で判断したい。ダメなら、1年でユニフォームを脱がせる」という長嶋監督の熱い訴えが同社長を揺さぶった。このままヤクルトにいても、一茂の力量に見切りをつけた
野村克也監督の下では、可能性すら遮断されてしまう。まさに電撃的な“救出作戦”といっていい。
そして、ついに渡辺社長が折れる。長嶋監督は即座に桑原オーナーに電話を入れ、両者の話し合いでトレード話が再燃。時間をおかず、一茂の移籍が決定した。
「ヤクルトから、長嶋一茂選手を“引き取るトレード”を申し入れることになりました」
12月16日に巨人・保科球団代表が語った何気ないひと言ではあったが、これがすべてを物語っていた。
写真=BBM