背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。 歴史に消えた永久欠番
オリックスの前身は4番目の球団として創設された阪急。戦後の1947年に阪急ブレーブスとなり、
西本幸雄監督の就任で徐々に力をつけて、67年から黄金時代に突入した。
その後、2度の激動を経験する。88年限りで球団の譲渡によりオリックス・ブレーブスに。チームは91年にオリックス・ブルーウェーブとなるも、2004年の球界再編で近鉄と合併。05年にオリックス・バファローズとなり、現在に至った。球団の譲渡と合併。背番号の歴史を語る上でも、この2つの事件を避けて通ることはできない。
本来なら永久欠番となってもおかしくない2つの背番号が、阪急とともに消えた。72年に世界新記録のシーズン106盗塁、通算盗塁でも83年に世界記録を更新した福本豊の「7」と、70年代からエースとしてチームを引っ張った史上最高のサブマリン・
山田久志の「17」だ。ともに阪急の終焉とともに現役引退、その背番号はオリックスとなっても欠番とされたが、「17」はブルーウェーブとなった91年に
長谷川滋利の背中に。「7」は21世紀となった01年、移籍してきた
進藤達哉が着けた。
ただ、この2つの背番号からレジェンドのイメージが消えたわけではない。「7」は福本と同様に攻守走の三拍子がそろった
糸井嘉男が13年から着けた。糸井は
日本ハム時代の11年から「7」であり、オリックスの「7」との出合いは偶然とも言える。16年限りで
阪神へ去ったため着けた期間も短かった。だが、阪急の復刻ユニフォームで「7」を背負った糸井の姿に、福本の面影を見たファンも少なくなかったのではないか。
また、「17」はドラフト1位で15年に入団した
山崎福也の背に。その期待に応えるように、山崎は17年にプロ初完封。「17」の歴史に新たなページを書き加えようとしている。
一方で、永久欠番ではないが、欠番の状態が続いている番号もある。05年には分配ドラフトで多くの選手が流入したときにも、“聖域”として残された。「51」……今季もメジャーで現役を続けた
イチロー(前マーリンズ)の背番号だ。
継承とともに躍進の重責も背負う

オリックス・イチロー
創設時、背番号は契約順に割り振られ、「1」と「2」に慶大のスターだった
宮武三郎と
山下実が並んだ。その後は、1ケタ台は野手、10番台は投手など、一般的な傾向にある。
長池徳二(徳士)、
石嶺和彦ら長距離砲の「3」、
島谷金二、
松永浩美ら強打者の「8」、
加藤秀司(英司)、
谷佳知ら巧打者の「10」は、順に
安達了一、駿太、
大城滉二へ。
戸田善紀、
佐藤義則ら2人のノーヒッターを輩出した「11」は
松葉貴大へ。「18」は伝説の投手・
野口二郎、17年に
中日の
岩瀬仁紀が更新するまで通算登板のプロ野球記録保持者だった“ガソリンタンク”
米田哲也ら右の鉄腕からチーム最年長投手の
岸田護へ。「21」は完全試合の
今井雄太郎からプロ野球記録のゲーム19三振を奪った
野田浩司を経て12年の最終戦ノーヒッター・
西勇輝へ。レジェンドたちの背番号とともに、低迷期からの脱却という重責も背負う。
近年のエース・
金子千尋の「19」は戦時中から戦後にかけて活躍したナックルの使い手・
天保義夫の背番号。17年オフにFA権を行使したクローザー・
平野佳寿の「16」は日本シリーズに強かったサブマリン・
足立光宏の背番号でもあった。
例外は「33」。50年代の低迷期から70年代の黄金期までを投げ続けた左腕・
梶本隆夫の背番号だ。名球界の投手では唯一の負け越し。低迷期の奮闘が分かる勲章でもある。95年にオリックスを初優勝に導いたクローザー・
平井正史も「33」だったが、10年に古巣のオリックスで日本球界に復帰した
田口壮が着けて以来、野手の番号となっている。
写真=BBM