2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 阪神・田宮謙次郎が大毎入り
今回は『1959年1月21日号』。定価30円だ。センターカラーは後楽園での
巨人・
長嶋茂雄、
藤田元司、
藤尾茂。当時は元旦に撮影日があったらしい。巻頭グラビアはシーズン中の長嶋の雄姿と新人・
王貞治のロッカールームでの写真だ。
本文巻頭は『特集 1959年12球団実力検討~1959年プロ野球のみどころ、かんどころ』。12球団の予想オーダー、新入団選手の一覧表、補強の評価などが掲載されている。
この号の最大の注目は、移籍の自由が与えられるA級十年選手だった
阪神・
田宮謙次郎の大毎入りだろう。
世間の騒ぎっぷりもそうだが、前号で本誌が「近鉄入り決定」と大々的に誤報を流してしまったからだ。経緯については、大井廣介の連載『プロ野球騒動史』の特別編的な扱いで記事になっていた。ただし、大毎入団発表は1958年12月27日。この連載は26日締め切りで書いている。大井は田宮から、ことあるごとに相談される立場だったらしい。
最初に動いたのは国鉄だったが、争奪戦の中で田宮の契約金が高騰。1年先に
金田正一が十年選手となることもあり、その軍資金のプールもあって断念した。
国鉄に続いたのは阪急、近鉄、大毎。その後、西鉄、南海、田宮の若手時代の恩師・
松木謙治郎がコーチでいた東映も動いたのだが、東映、西鉄は早々に“棄権”した。
近鉄は田宮が日大時代にバッテリーを組んでいた
根本陸夫が動いていた(57年限りで引退し、おそらくスカウト時代。なお、田宮は大学時代および阪神若手は投手)。球界の寝業師は“早熟”だったのか。その後、さらに田宮が尊敬していたという
千葉茂が近鉄の監督に就任。一気に気持ちが近鉄へと傾いた。
ただし、田宮自身は最後まで阪神残留と思っていたらしい。それが、さまざまな駆け引きや誠意のなさで、徐々に阪神に嫌気がさし、退団が決まった。
その後、候補が近鉄と阪急に絞られ、前週の本誌は「近鉄に決まった」と思い、特集を組んだ。
それがなぜ大毎となったのか──。
キーマンは松木のようで、なぜかははっきり分からないが、大毎入りを松木が強く勧め、田宮が翻意した。
経緯だけを見ると、田宮がカネに細かいように思うかもしれないが、実際にはそういうことはまったくなく、人の良さもあって、あれこれ揺れているうちに大騒動となったようだ。
連載小説『黒いペナント』は野球賭博の話。主人公が選手に次のような言葉を言うシーンで終わっている。
「小日山尚の失策を一つ五十万で買いに来たのだ」
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM