大物選手がFA権を行使して移籍してくる代償として、その大物選手の旧所属球団が自分を指名する――。それは、チームが28人のプロテクトリストから自分を外したから。しかし、それで出場機会が飛躍的に増えるケースもある。人的補償で移籍した印象深い選手を取り上げていく。 控え捕手として存在感を発揮
FA制度を利用した移籍に伴う人的補償は、1996年の
川邉忠義(巨人→
日本ハム=
河野博文の補償)を筆頭に、
平松一宏(2002年巨人→中日=
前田幸長の補償)、
ユウキ(02年近鉄→
オリックス=
加藤伸一の補償)と、当初は投手が指名されるケースが相次いだ。
投手以外で人的補償に指名されたのは、05年オフに中日からFAで巨人入りした
野口茂樹の代わりに、中日に移籍した
小田幸平が第1号である。
兵庫・市川高、三菱重工神戸を経てドラフト4位で98年にプロ入りした小田は、巨人では一貫して控え捕手という立ち位置だった。ルーキー時代の正捕手は
村田真一。01年に強打の捕手、
阿部慎之助がドラフト1位で入団すると、レギュラーの座はさらに遠のいていった。
小田も少しずつ出場数を増やしていき、05年には自己最多の27試合でマスクをかぶったものの、絶対的な正捕手であり、打ってはクリーンアップの一角を担う阿部の牙城を崩すのは、とうてい不可能と言っても良かった。
そこへ降ってわいたような中日への移籍。
落合博満監督は「小田が(プロテクトから)外れているとは思わなかった。大もうけと言っていいんじゃないのかな」とほくそ笑んだが、それはあくまでも「控え捕手」の小田に期待してのことだった。
なにしろ中日には
谷繁元信という不動の正捕手がいる。年齢はすでに35歳になっていたとはいえ、その地位を脅かすのは難しかった。
それでも小田は「控え捕手」としての役割を全うし、首脳陣の期待に応えてみせた。試合に出ていないときでもムードメーカー的な存在として、ベンチからチームを盛り上げた。
ファンもそんな小田をこよなく愛した。打席に入るたびに、「小田」をアルファベットにした「ODA(オーディーエー)」
コールで声援を送った。
小田も、その声援に見事に応えて、お立ち台に上がったときには、お決まりの「やりましたー!」のセリフでスタンドを沸かせた。この決めゼリフはファンの間で流行し、グッズが販売されるまでになった。
14年オフに戦力外通告を受けた小田は、現役続行の道を模索したものの、翌年1月に引退を表明。会見の締めくくりは「17年間、やりましたー!」の絶叫だった。
写真=BBM