近年は少なくなってきたが、プロ野球の長い歴史の中でアッと驚くようなトレードが何度も行われてきた。選手の野球人生を劇的に変えたトレード。週刊ベースボールONLINEで過去の衝撃のトレードを振り返っていく。 正式決定までは長期化

巨人へ移籍した1949年、2カ月の出場停止処分もあったが14勝を挙げ優勝に貢献した別所
[1949年3月]
南海・
別所昭→巨人
1947年に30勝で日本最多の47完投をマーク、48年には26勝を挙げて優勝に貢献した南海のエース、別所昭(別所毅彦)。その契約が48年限りで切れた。当時、統一契約書もなく、契約が切れたら、法的には移籍も選手の自由となるが、慣例的には継続して契約を結ぶのが普通だった。
別所は、金銭的にかなり渋かった南海の条件に不満を募らせていた。ほかの球団の選手の給料も調べ、「ほかより少ない。ジャイアンツの青田(昇。滝川中の後輩)に比べて半分以下だった」とこぼしていた。
48年の優勝が決まった直後、別所は契約続行に2つ条件を出した。「月給をヨソと同じレベルにしてくれ」「一軒家が欲しい」。当時、スター選手が再契約する際、家や自動車をもらうことが多かった。別所は結婚したばかりだったが、まだ兄の家に間借りで、しかも子どもがもうすぐ生まれるとあって、なんとか一軒家が欲しかったのだ。
しかし、球団は「おまえだけ特別扱いはできない」と蹴った。
その後、夫人が銀座の小料理屋を経営していた両親にこの話をすると、店の常連だった巨人の重役につなぎ、一度会おうと伝言をもらって、小料理屋で10月に会った。
そのときは正式な話し合いではなかったが、シーズンオフの契約更改の場で南海の球団代表と大ゲンカ。「出て行きたければ勝手にしろ」と言われた別所は、そのまま東京に来てその重役に会い、巨人と契約してしまった。
慌てた南海は、その後、条件をすべてのむと言ってきたが、別所は断り、南海、別所双方が連盟に提訴する騒ぎとなった。連盟は南海に11日間の優先交渉権を与えるが、そこで決まらなければ別所が自由に決めていい、と裁定。結局、話はまとまらず、3月26日に南海との契約が切れるのを待ち、翌27日に巨人と正式契約した。ただ、シーズン中の交渉が問題となり、巨人には罰金、別所には開幕から2カ月の出場停止処分が下されている。
話には続きがあり、この遺恨もあって緊迫した巨人-南海戦で4月14日、巨人・
三原脩監督が、南海の
筒井敬三を殴って無期限試合出場停止処分になる騒ぎもあった(「三原ポカリ事件」)。ただ、球界関係者は、騒動で同カードが盛り上がり、集客がアップしたことをひそかに喜んでいたという。
6月から復帰した別所は14勝9敗。巨人は戦後初優勝を飾り、一方、エースを失った南海は4位に沈んでいる。
最後に別所の言葉を。
「大阪に行ったら1球1球ヤジられた。ヤジは3、4年続きましたね。人のウワサは75日というけれども、それはウソですよ(苦笑)」
写真=BBM