近年は少なくなってきたが、プロ野球の長い歴史の中でアッと驚くようなトレードが何度も行われてきた。選手の野球人生を劇的に変えたトレード。週刊ベースボールONLINEで過去の衝撃のトレードを振り返っていく。 フロントと衝突し、失踪

大騒動の末、西鉄に移籍した大下
[1952年4月]
東急・
大下弘⇔西鉄・
緒方俊明、
深見安博 戦後、代名詞となった“青バット”と、ホームラン量産で一世を風靡した大下弘。1951年オフ、その大下の移籍騒動で球界が大きく揺れた。政財界も絡んで、さまざまな説が飛び交った謎の移籍騒動であるが、今回は当事者の大下の言い分を中心に構成してみよう。
48年、東急は大映と合併し、急映フライヤーズとなったが、1年だけで大映勢が離脱。一気に選手不足になった。このとき大下は球団に頼まれ、明大の後輩や知り合いのツテで選手を集めた。
しかし、当初支払うと確約していた彼らへの契約金を突然出せないと言い出し、間に入った大下のメンツがたたなくなる。大下によれば「彼らを誘いにいく際、さらに呼んでからもずいぶん面倒をみて、お金を使った」という。
球団フロントに直談判に行くと「文句があったら借金を全部払ってからにしろ」と言われ、プツンと切れた。大下は有名な夜遊びだけではなく、母親が薬物中毒で、その治療費も高額になっていた。実際、球団にはずいぶん前借りをしていたというが、自分がいるからお客さんが来ているという自負もある。いわゆる「それを言っちゃおしまいよ」のひと言だった。
大下は知り合いから金をかき集めて借金をたたき返し、「出してくれ。ダメなら野球をやめる」と言い放った。球団はあわてて引き留めたが、大下の決意は変わらず、球団も移籍に向けて動くことになった。
すぐに毎日、近鉄、西鉄が獲得を申し出てきたが、ここで大下が失踪。大下の代理人を名乗る人物も登場し、事態は混迷を深めていく。大下はこのとき、東急の先輩で秋田にいた
赤根谷飛雄太郎に頼み、秋田の料理屋にいた。ある関係者にほとぼりが冷めるまで隠れていろと言われたからだ。
このとき球団オーナーの大川博は西鉄、猿丸元球団代表は毎日、大下自身は近鉄への移籍を希望していたという。猿丸はパのリーダーである毎日の強化がリーグの発展につながると考え、大川は西鉄監督・
三原脩に、見返りの選手にプラスし、金も払うと言われて、なびいた。
その後、西鉄には大下の名前で断りの手紙が届いたり、のちの総理大臣・佐藤栄作運輸大臣が、鉄道局にいたことがある大川に、近鉄に入れるように圧力をかけたりとさらにドタバタ。
最終的には、緒方俊明と深見安博との交換で西鉄入りが決まり、すでにシーズンに入っていたので、深見は2球団にまたがるホームラン王となった。大下は、西鉄黄金時代の中心として59年までプレーを続けることになる。
写真=BBM