長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 素振りの重要さに気付いたのは立大時代

現役時代、素振りにこだわった長嶋
スーパースター・
長嶋茂雄(
巨人)は徹底的に素振りにこだわった。練習に関しては、盟友・
王貞治のほうが有名で、“努力の王と天才の長嶋”と見られがちだが、実際には負けないくらいバットを振ったという。
ただ、長嶋には自分の努力をあまり見せたくない、という美学もあった。したがって、よくやったのは夜、自宅の素振りルームだ。毎日、納得するまで振ってからではないと眠れなかったという。だから15分のときもあれば、空が薄明るくなるまで振ったこともある。それは試合のあった日も変わらない。むしろ、試合の感覚が残っているうちにと、球場では風呂にも入らず、家に戻り、素振りルームに向かった。
「バットを振る音が早いと、体が開いて、ポイントが後ろに残ったということだし、音を聞けば、すべて分かるんです」
納得するポイントで短い音がすれば、最高のスイングができたという証だった。その音が聞こえるまで、妥協することなく振り続ける。音に集中するため、部屋の電気を消し、真っ暗にした。たいていはパンツ一丁で振っていたが、下半身主導のスイングができているかを確認するため、時に全裸になることもあった。できていれば、一物が“ピシピシ”といい音を立てて左足の腿に当たるというわけだ。
素振りの重要さに気付いたのは、立大時代だ。入学時の監督は“鬼”と恐れられた砂押邦信。長嶋の才能に注目した砂押に指示され、毎日、全体練習の後、30分かけて砂押の家まで走り、師匠の前で通常のバットの2倍ほどの重さのマスコットバットを振った。1日1000スイングがノルマ。バッティンググラブなどない時代だが、素手では手がもたないので軍手をつけて振った。それでもすぐマメができ、つぶれた。軍手が血に染まると、それを水で洗ってまたつけたという。
スイングは、砂押に見せられたジョー・ディマジオ(ヤンキース)の連続写真を見本にした。日本ではまだ理論化されていなかった下半身主導のスイングを徹底的に繰り返し、スイングのベースを作り上げていったという。
長嶋が素振りにこだわったのは、体の状態が日々変わっていくなかで、スイングしながらそれを確認、修正したいという思いがあったからだ。そのためには、いいときの自分を知っている人に見てもらうほうがいいと、プロ入り後も、サンケイで監督となっていた砂押のもとを訪ね、スイングを見てもらったこともある。
松井秀喜が言われたことは……

2006年、ヤンキース時代の松井の手のひら
1970年のスランプ時からは、ニッポン放送のアナウンサー、深澤弘氏がパートナーになった。自分がこれほど苦しんでいるのをチームメートにも見せたくないという長嶋の思いもあったのだろう。毎日、自分のスイングを近くで見せ、当初、素人が恐れ多いと何も言わなかった深澤氏に、「いいときの俺と悪いときの俺を一番分かっているの、あんただろ。なんで言わないんだ」と叱ったこともあったという。
深澤氏が「次は平松(政次。大洋)」「次は安仁屋(宗八。
広島)」という長嶋の言葉に合わせ、シャドーピッチングすることもあった。長嶋は引退前夜も深澤氏の前でスイングしたが、深澤氏の目には好調時とまったく変わりはないように見え、長嶋自身も「俺は衰えたわけじゃない」ときっぱり言い切った。
大学時代とは違い、長嶋の手はいくら素振りしてもマメができなかった。その証言者が巨人監督時代の愛弟子・
松井秀喜だ。グラウンドではなく、長嶋にホテルの部屋に呼ばれ、目の前でスイングをさせられた。監督の任期の最後4、5年は、ほとんど毎日呼ばれ、さらに監督が
原辰徳に代わった2002年にも何度も呼び出されたという。
「そこで言われたのが、手にマメができる選手はよくない。自分ができない体質だからかもしれないけど、マメができるバッターはそれだけ余分な力が入っているからダメだというのが持論でした。力が入ると、バットのコントロールがダメになるから、握る力はバットをコントロールできるだけでいいと。僕もそれまではマメができやすいほうでしたが、そこからそれを意識し、巨人時代の最後はほとんどマメができないようになっていました」(松井)
柔らかい握りでヘッドスピードを高めることにこだわった長嶋。周囲からはアウトステップするクセを批判されることもあったが、「肩も腰も開いてないから問題ない」と気にしなかった。それもまた、毎日の素振りでつかんだ自信だったのだろう。
●長嶋茂雄(ながしま・しげお)
1936年2月20日生まれ。千葉県出身。佐倉一高から立大を経て58年に巨人へ入団、本塁打王、打点王、さらに新人王にも輝いた。派手なアクションや勝負強さで絶大なる人気を誇り、“ミスター・プロ野球”とも呼ばれた。74年限りで現役引退。その後は2期にわたって巨人の監督を務め、リーグ優勝5回、日本一2回。2001年限りで勇退、巨人の終身名誉監督に就任した。88年に野球殿堂入り、13年には国民栄誉賞にも。主なタイトルはMVP5回、新人王、首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回。通算成績2186試合、2471安打、444本塁打、1522打点、190盗塁、打率.305。
写真=BBM