
和解会見。前列右が藤村、左が金田
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は12月30日だ。
事件が動き出したのは、1956年11月8日だった。
阪神の主将だった
金田正泰の自宅に、
田宮謙次郎ら主力選手が集まった。球団に対し、前年のシーズン途中から選手兼任となった
藤村富美男監督の退陣を迫るためだ。
藤村は球団創設期からのスター選手で、物干し竿と言われた長尺バットでヒット、ホームランを量産。希代のショーマンとしても知られ、「ミスタータイガース」と呼ばれた人気選手だった。ただ、アクが強く、マイペースともとられる一面もあり、必ずしもほかの選手の人望が厚かったわけではない。
加えて金田ら選手が我慢できなかったのが、金銭に対する無頓着さだ。契約更改ではもめることなく、すぐサイン。ほかの選手は「藤村さんだってこの額で抑えているんだ。お前はこのくらいで当然」と言われることも多かった。
さらにいえば、当時の阪神はバラバラだった。金田を中心にした中堅ベテランの派閥、
真田重蔵ら和歌山出身者中心の派閥、そして青木一三スカウトが獲得した選手の派閥と大きく3つに分かれていた。彼らは何かと言えば、衝突していたが、このときは「反藤村」で結束する。
8日の極秘会合の後、金田は球団に藤村退任を申し出、以後大騒ぎ。球団首脳の会議の結果、藤村監督の留任と金田、真田、青木と3派閥の中心人物の解雇を発表した。
しかし、これに主力選手が怒り、契約更改をボイコットした。ふたたびこう着状態となったが、球団は藤村監督の更迭要求撤回を条件に金田の復帰を認め、金田も藤村と和解した。その際、金田派は金田の自宅に押しかけ、金田を裏切り者となじったという。
全選手の契約が終わったのが12月30日。その日、関係選手が球団事務所に集まり、仲よく握手し、52日間の内紛劇に終止符を打った。
ただ、藤村は翌年オフには監督を退任し一選手に。結局、同年限りの引退となった。
写真=BBM