今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 メガネをつけるも打てず……
今回は『1964年5月4日増大号』。定価は10円上がって50円だ。
世紀のトレードで
阪神入りした
山内一弘だが、どうも打てない。
悩んだ挙句、3月27日の巨人戦の後、1万8000円の金縁メガネを買ったという。
実は、2年ほど前から乱視に苦しんでいたが、野球には関係ないとすませていた。
しかしメガネが合わなかったのか、ボールがえげつない変化をしているように見えるようになり、さらに打てなくなった。
9試合あった3月は打率.182、その後もまったく調子が上がらない。
練習の虫だけに必死にやった。毎晩の日課だった素振りが夜中の2時を過ぎることもあったという。
藤本定義監督の言葉を聞き、情けなさが増す。
「うちには山内以外の四番がいるかい。不調だと言っても、あれだけの打者だ。四番をかえることはないよ。いつか打ち出しますよ」
転機は4月15日の国鉄戦だった。悔しさから試合直後の打撃練習を申し出、
杉下茂コーチに投げてもらい、150球以上を打った。球拾いは試合を終えた私服になったコーチやマネジャーがやってくれた。
打ち続けるうちにモヤが晴れてきた。
「僕はフォームを昔に戻そうと思った。パ時代は投手が逃げのピッチングで来たが、セでは内角に向かってくる。それで少し腰を開いて打ってみたのだが、それが悪かったのだ」
この時点で打率が.138、ホームランはゼロだった。
成果はすぐ出る。翌16日の国鉄戦、8回についに初ホームラン。ベンチに戻った山内は流れる涙を止めることができなかった。
同年、最終的には打率.257、31本塁打、94打点。よく持ち直したというべきだろう。

好調阪急を伝える記事
西本幸雄監督率いる阪急がパで旋風を起こしていた。前年最下位に終わった後、一度は西本監督が辞意ももらすも球団が説得し、留任となった。
石井茂雄の成長や
スペンサーとウインディの加入もあったが、キャンプからの西本監督の猛練習が実ったのも言える。
岡野球団代表が驚いたのは4月11日の東映戦だ。西本監督は風邪で38度の高熱に苦しんだが、「休んでは」の声を拒絶。
「とんでもない。このぐらいの熱は平気ですよ。風邪で休んでいては選手に悪い。せっかく盛り上がっているチームのムードをぶち壊しますからね」
試合は勝利。西本監督は心配してきた岡野代表に「平気です。もう熱はないようですから」と真っ青な顔で言った。
岡野代表はこう言う。
「弱音を吐かない男なんだ。意地っ張りだからね。あんなにいい男をオリオンズが手放すのだから分からないものですねえ」
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM