
2003年、就任2年目で阪神をリーグ優勝に導いた星野氏
2001年限りで
中日の監督を勇退した
星野仙一氏だが、もうユニフォームを着るつもりはなかったという。現役時代からドラゴンズ一筋でユニフォームを着続けた燃える男だ。ヨソのチームの戦闘服を身にまとうことは考えられなかった。しかし、そこへ阪神からの監督要請。消えていた心の炎が再びともり始めたのを確かに感じたが、それでもやはり迷いはあった。
進退を迷っているときに電話があった。
長嶋茂雄からだ。そこでミスターは「仙ちゃん、何を迷っているんだ」と、ひと言。さらに「もう伝統の『
巨人―阪神戦』がないんだ。ジャイアンツは頑張っているんだよ。でも、タイガースが全然ダメじゃないか」と言葉を続けた。確かに阪神は4年連続で最下位に沈んでおり、もう死に体だった。
「『お前がユニフォームを着て、伝統の巨人―阪神戦をよみがえらせろ!』という長嶋さんの熱いメッセージが、僕の背中を押してくれたのは間違いなかった。その分、責任をひしひしと感じ思ったね」
そして、星野タイガースが誕生した。
阪神ナインに闘争心を植え付ける作業を意識的にやった記憶はない。しかし、星野仙一という男が普通に振る舞えば、自ずとにじみ出てくることだからそれを意識する必要はなかったのだろう。自然と発せられる熱き言葉の数々。その一つひとつが、負け犬根性が染みついていた阪神ナインの心を奮い立たせた。
「いいときはいいとはっきりと褒めてやる。逆にダメなときはダメだ、と。これは当然のことだろう。そういえば、確かこんなことは言ったかなあ。『お前たちは俺が着たくて、着たくてしようがなかったタテジマを着ている。俺はお前たちがうらやましかったんだ。なのに甲子園での無様な戦いはなんだ。オレは敵として恥ずかしかった』と。さらに『大阪は吉本の笑いとタイガースしかねえんだ』とも。まあ、それは極端に言い過ぎたけど、とにかく阪神タイガースは関西の文化財だということを理解してほしかった」
とにかく伝統あるタテジマのプライドをよみがえらせることが一番、大事だと考えた。さらに
楽天の監督を務めたときもよく言っていたことだが、「技術はすぐにうまくなるわけではない。コツコツコツコツ毎日練習するしかないだろう。でも気持ちは、自分の持ちようでスーッ、スーッとスムーズに上がっていくはずなんだ」ということも訴え続けた。野球に対する取り組み方の部分だ。
今岡誠がいい例だった。星野氏が監督になり、「変わるんだ」と自らを奮い立たせた。その結果、01年は120試合の出場で打率.268と低迷していたが、02年、二塁手のレギュラーをつかんで自己最高の.317、15本塁打をマーク。まさに星野氏の情熱に心が動かされた選手の筆頭だった。
結局、02年は4位に終わったが、同年オフ、
広島からFAで
金本知憲を獲得するなど戦力補強も行い03年、18年ぶりに阪神を頂点に導いた。
星野氏はナインに次のような言葉も投げかけていたという。
「もっともっと野球を好きになって、恋をしろ。女ばっかりに恋しているんじゃないよ!」
勝利のためにたぎり続けた限りない情熱。きっと、野球に最も恋をしていたのは星野氏だったと思う。
文=小林光男 写真=BBM