長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 川上監督に2人だけで決めたサインを送り……

心臓に疾患を抱えていたが、マウンドでは弱みを見せなかった宮田
1965年、
巨人V9のスタートの年の最大の功労者が、“8時半の男”と言われた抑えの
宮田征典だ。69試合に投げ、20勝5敗。規定投球回にも達し、防御率2.07はリーグ4位だった。当時、セーブ制定はなかったが、現行の制度なら22セーブがつく。
宮田の武器は、抜群の制球力と落ちるカーブ、ミヤボール、さらに独特の長い間(ま)だった。相手がいらつき、ボークではないかと相手チームから抗議されたこともある。優れた観察眼で打者心理を見抜き、相手をじらす目的もあった。サインも捕手任せではなく、打者の雰囲気を見て自分で決めていたという。
ただ、心臓に疾患を抱え、この間でなければ投げられなかったこともある。あまりの心臓の動悸の早さに、
川上哲治監督に2人だけで決めたサインを送り、交代してもらったこともあった。そのときも相手にスキは見せられないと、必ず打者を打ち取ってからだった。
そして、平気な顔をしてゆっくりベンチに帰り、すぐ医務室に向かうと、氷嚢(ひょうのう)で心臓を冷やした。
すべてを知っていた川上監督はMVPが
王貞治に決まった後、選考にあたった記者たちにポツリと言った。
「宮田にやれんかったのか」と――。
宮田征典(みやた・ゆきのり)
1939年11月4日生まれ。群馬県出身。前橋高から日大を経て62年巨人入団。心臓の疾患もあって短いイニングのリリーフとして起用された。64年途中には右肩亜脱臼で離脱したが、65年に復帰すると主にリリーフながら20勝を挙げた。66年以降は故障や内臓の疾患に苦しみ69年限りで現役引退。2006年7月13日死去。通算成績267試合登板、45勝30敗、防御率2.63。
写真=BBM