
1975年のオールスターで力投するドラゴンズのエース・星野仙一
「おぉ、なんや、お前か」
去年、久しぶりに会った星野仙一さんは、こちらの顔を見るなり、ドスの利いた声でぶっきらぼうにそう言った。この人は、昔からそうだった。言葉は厳しくても、あの満面の笑みを浮かべながら声を掛けられると、こちらもつい、顔がほころんでしまう。もう、二度と星野さんのバリトンボイスが聞けなくなったことを、未だに受け入れることができない。
人生に“恩人”という存在がいるとしたら、間違いなく星野さんは恩人だ。この欄でも書いたことがある。昔話ではあるが、今一度、おつきあいいただきたい。
あれは1975年のことだ。当時、通っていた名古屋の小学校でカベ新聞コンクールが行われることになり、どんな新聞を作ろうかと新聞委員の3人がヒザを突き合わせて考えていた。突然、ある企画(というより企み)が浮かぶ。それが、ドラゴンズの選手への“アポなしインタビュー”だった。
今では考えられないことではあるが、その昔、市販されているプロ野球の選手名鑑には、選手の自宅の住所が記されていた。小学校の学区内にはドラゴンズのレギュラークラスの選手が4人住んでおり、さっそく新聞委員の3人でその選手たちの自宅を直撃することにした。
しかし取材は難航した。不在だった選手もいた。けんもほろろに断ってきた選手もいた。1人ダメ、2人、3人……子どもなりにお願いしやすそうなイメージの選手から訪ね歩いたのだが、そんなに簡単な話ではなかった。そして最後に残ったのが、強面のイメージしか持てなかった“ドラゴンズのエース・星野仙一”だった。
名古屋の高級住宅街にそびえるマンションの高層階。おそるおそるピンポンしてみると、玄関のドアがあいた。出てきてくれたのは、星野さんの奥様だった。
「あの……僕たち、田代小学校のカベ新聞コンクールの取材でおうかがいしました。星野仙一投手へのインタビューをお願いします」
そんなしっかりしたあいさつができたのかは定かでないが、奥様は「ちょっと待って下さいね」と、ニッコリ笑った。家の中へ戻っていった奥様に、3人組のテンションは一気にヒートアップする。
「おい、星野、中にいるぞ」
「出てきたら、何て言おう」
ドキドキしながら待っていたら、ドアが再び開いた。
「どうぞ」
えっ……!?
「インタビュー、お願いします」
はっ……!?
まさか星野がOKしてくれたのか?まさか家の中に入れるのか?まさかインタビューできるのか?
ドキドキしながら家の中に入ると、リビングのゴージャスなソファーに、あのドラゴンズのエースが、どっかり座っているではないか。ドスの利いたバリトンボイスで、星野さんは開口一番、言った。
「なんや、お前ら、どいつもこいつも、ぶくぶく太りやがって」
じつは新聞委員の三人は、そろいもそろって肥満型だったのだ。そんな厳しいことを言いながら、目の前の星野さんは満面の笑みを浮かべている。何をきいたのか、どんな話をしてくれたのか、一時間に渡るインタビューだったのに、残念ながらまったく記憶にない。覚えているのはリビングに飾ってあった優勝の瞬間のパネル写真、奥様が出してくれたケーキと紅茶、それから星野さんに図々しくもサインをねだったときの、この言葉。
「おまえら、これが目的じゃないだろうな」
そのときも、星野さんは笑っていた。やさしい笑顔だった。あのときにもらったサインは大切な宝物ではあるが、それ以上に、あのインタビューをしたという経験は人生の宝物になった。
野球記者になりたいと本気で思ったのは、あの日からだ。小学校の卒業文集には「21世紀の自分」の欄に「スポーツ新聞の記者」と書いた。実際、野球記者のはしくれに名を連ねることができた。あれから1000回を越えるインタビューをしてきたが、人生で初めてのインタビューは10歳のとき、その相手は突然、家を訪ねてきた見ず知らずの小学生に向き合ってくれた星野仙一さんだった。まだ百万分の一の恩返しもできていないというのに、星野さんはあっという間に逝ってしまった。大切な人を奪った膵臓がんが憎い。心にぽっかりと穴があいたまま、時間ばかりが過ぎていく。悲しみ、悔い、感謝、祈り、そんなたくさんの想いを込めて、合掌――。
文=石田雄太 写真=BBM