今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3500号が近づいている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 『巨漢投手馬場の執念~せめて一度は思う存分投げまくってみたい』
今回は『1960年1月6日号』。定価は30円だ。グラビアは前が巨人の同期・
長嶋茂雄、
難波昭二郎の海沿いのドライブシーン、センターグラビアが大洋の新監督・
三原脩家を訪れた大洋の
近藤和彦、
桑田武、さらに『連載告知板』として『ぼくのパパわたしのパパ』で選手の子どもたちが登場だ。後ろグラビアは
中日・
江藤慎一、
森徹の1日警察署長と年末感たっぷりの構成になっている。
本文巻頭は『特集 ジャイアンツの危機~二軍の若手はなぜ育たない』。二軍生活についての文章を少し拾っていこう。
巨人の合宿の59年のメンバーは、1年目を終えた
王貞治を含め31人で、六畳の部屋に2人ずつとなっている。1カ月の寮費は4500円で門限は午後10時。もちろん、一軍でナイターに出た選手は例外となる。
ここではいわば「二軍哀歌」がつづられている。要は、育成のためではなく、一軍選手が練習に来たときの手伝いばかりで“あがり目”がないという話だ。当時はまだ二軍の公式戦がなく、アピールする場すらない中、一軍選手が来ると球拾い、打撃投手でかり出され、自分の練習をする時間が不足していたようだ。
「二軍は二軍だけで打って、走って、ノックを受ける練習をさせてほしい」
匿名の二軍選手の言葉である。
巨人を解雇となった、のちのジャイアント馬場、
馬場正平の記事『巨漢投手馬場の執念~せめて一度は思う存分投げまくってみたい』もあった。
11月8日、巨人から自由契約を告げられた馬場に、すぐ届いた勧誘は相撲の出羽ノ海部屋だったが、「ぼくはもう一度野球で自分の力をためしてみたい。だめならほかの道を考えたい」と断った。身長1メートル94、体重101キロの巨漢でありながら、この時期、毎日1時間のランニングが日課だったというからすごい。
三原脩から誘われ、大洋行きが内定したが、結局は風呂場で転倒したケガで正式契約はなかった。「超二流」を好んだ三原。もしかしたら1960年の魔術の1つに、この巨漢投手が加わったかもしれない。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM