星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略) 77年、自己最多の18勝

「星野仙一追悼号」表紙。小社で野球人の追悼号を出したのは、川上哲治氏に続き、2人目となる
Vイヤー翌年の1975年は17勝。一時は最多勝争いにも加わったが、この年もまた先発26試合、リリーフ14試合と起用法は一定ではなかった。
ただ、抑えは、ほぼ4月。5月以降は先発に回り、
広島とのデッドヒートとなった終盤の9月は6勝0敗、8月10日以降は9連勝で首位・広島追い上げの原動力となった。この年、話題となったリーグ10万個目の三振も事前に「まあ、俺だろう」と言っていたとおり、9月2日、広島・
外木場義郎から奪っている。
翌76年は足の故障で10勝止まりだったが、続く77年が自己最多の18勝(13敗)を挙げたシーズンだ。イニングも245回3分の2を投げている(先発33試合、抑え12試合)。
ただ、実は前年の足の故障が悪化し、負担を軽くするため、特注の底の刃が金属ではなく、ゴムのスパイクを使って投げた年でもあった。
「足は滑ったけど、まだ若くて馬力があったからでしょう」と星野。
魔球フォークが冴えわたった年でもある。のちになるが、81年、
巨人を引退した
高田繁との対談で、この年のフォークの威力について触れた個所を抜粋しよう。
高田 フォークとわかっていて打てないんだから。揺れながらくるんだ。独特のフォークだよな。
星野 だから外人がナックルだとかいう。
高田 だから巨人とのゲームで、つばか薬でもつけてるんじゃないか。ボールを調べてくれって審判に言ったりね(笑)。
星野 ええ、ワセリンとかあんなの使ってるんじゃないかって。あれは投げ方があるんですよ。僕が引退したら教えますから(笑)。
高田は星野にとって、尊敬する明大の先輩だ。はったり(?)は少なく、本音も出ている。
プロ入りの際、星野が動脈狭さくで、それを知った巨人が指名しなかった、という話がさらりと入ってきたりするから驚く。ほかにも興味深い個所は多い。チャンスがあれば紹介したい。
<次回へ続く>
写真=BBM