星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略) 王貞治が一番怖いとき

77年にはキャリアハイ18勝をマークした
今回は、星野が現役時代のライバルたちについて語った言葉を紹介してみる。
以前の回で、1974年、
千葉茂(元
巨人)との対談の一部を紹介した。あのときはON(
王貞治、
長嶋茂雄)、巨人に対する血気あふれる若者の気負いが感じられるものだったが、以下は現役後半、さらに引退後のインタビューから抜粋したもので、自身を客観視している部分もある。
「王さんに一番気をつけなければならないのは、1回バッターボックスを外して、ニコニコ笑ってバッターボックスに入り直したとき、一番怖い。そのとき、気をつける。よく、打たれるから。気をつけても、なおかつ打たれる。あの人の集中力のもっていき方というのは素晴らしいね。その集中力をどう砕いていってやろうかという考え方をしているんだけれども」(80年のインタビュー)
「僕、ピッチャーとして幸せですよ。まあ堀内(恒夫。巨人)なんかでも、ものすごくがんばっとるけれども、ONに投げられなかったのが、心残りじゃないかと思う。自分がピッチャーとしていい時期に、ちょっとあの二人と対戦してみたかったんじゃないかなという気がしますね。
全盛期、あの二人を抑えようとしたら大変だったもの。どっちかに打たれるんだから。二人を抑えないと巨人には勝てないでしょう。だから逆に計算して、9回の裏なり表なりに二人の打順が回ってこないようにするには、いまこいつを出してもええわというふうな、そこまで考えたピッチングをしとったですよ」(81年のインタビュー)
「他チームにもさまざまな強打者たちが出てきた時代。大学時代からの親友、
山本浩二(
広島)、
田淵幸一(
阪神)もいた。巨人の打者に対しては堂々と平気で胸元を突いて脅かすことができたけど、ブチ(田淵)たちにはどうしても思い切って脅かすわけにもいかん。投手は打者と仲良くしてはいかんと思いましたよ。巨人打線はもちろんだけど、ほかにも
ヤクルトの若松(勉)、広島の衣笠(祥雄)、大洋の松原(誠)さん……いいバッターがたくさんいたなあ。
それに阪神の掛布(雅之)。彼はある意味で僕が“生みの親”なんですよ。阪神戦でこっちが大きくリードしている最終回近く、坊や坊やした顔の男が代打で出てきた。カケフって誰や、テスト生みたいにして入ってきた男や、ということで、第1球、投げたらファウルチップだったけど、ものすごいスイングしてきた。セカンドゴロに打ち取ったけど、これは大物になると直感した。翌日、試合前の練習で吉田(義男)監督に会ったとき『あれは大物になる。ずっと使ったほうがいい』と言ったら『ホンマかいな』と笑っていましたが、それからですよ、掛布が出てきたのは。
だから掛布に言うてやった。『オレのおかげだぞ』って(笑)」
星野は下位打線とクリーンアップでまったく違う投球をするとも言われた。単なる反骨心だけではなく、ヒジ痛を抱えていたこともあり、なかなか1試合全力とはいかなかったこともあるだろう。
熱さと冷静さ。その2つを兼ね備えた男だった。
<次回へ続く>
写真=BBM