星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略) 優勝決定試合では監督の次に胴上げ

リーグ優勝を決めた祝勝会(中央)
炎の男にも現役最後の時が近づいていた。
33歳で迎えた1980年、キャンプから絶好調で「今年は俺の記事だけ用意しておけばいいぞ」と顔なじみの記者に冗談を言っていた。
しかし、開幕してすぐ
阪神戦で
ラインバックのライナーを右腕に受けてから、少しずつ狂いが生じ、終わってみたら6勝12敗。シーズンを終えた星野は「来季にすべてをかける。もし今年の6勝以上ができなければ、きっぱり引退する」と言い切った。
翌81年は兼任コーチ。球団とすれば、結果が出なければ、そのままコーチに横滑りという温情もあってだったが、星野はいっさいコーチとしての指導はせず、「練習態度、マウンドで生きたお手本を示す。これがコーチとして俺の役目だ。だから無様なピッチングはできない」と逆に自分を追い込んだ。
背水の陣で挑んだ、この年、10勝9敗。優勝した
巨人相手の5勝も光り、星野は「俺はONがいたときのV9打線相手に投げてきたんだよ、今の巨人なんてファームさ」と言って、不敵な笑顔を見せた。
しかし、翌82年、序盤は先発だったが、
近藤貞雄監督が思い切った若手への切り替えを行ったことで出番が一気に減る。
10月18日、
中日の優勝決定試合では近藤貞雄監督に次に胴上げされたが、自身の登板は10月12日が最後。ちょうど500試合登板だった。通算成績は146勝121敗34セーブだ。
引退当時の心境に触れた言葉を紹介する(中日70年史)。
「僕がそろそろ現役引退を覚悟するようになったのは、内転筋を痛めて下半身が使えんようになって、腕だけで投げるから肩も痛めた。それからですね。“2ケタ勝ち星を挙げられんようになったらやめる”と宣言したころ、投手陣には都、小松、そして
郭源治。そばでピッチングをしていると、あいつらの球は勢いよくビュンビュン行くけど、こっちはフラフラッと行ってボソリと落ちていく。“もうこいつらの時代だな”と。寂しいけど現実は認めざるを得ない。もちろん“こいつらに任せておけば、もう中日の投手陣も大丈夫だ”と確信を持ったから、引退に踏み切ることができたんですけどね」
<次回へ続く>
写真=BBM