星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略) 「ここが俺の死に場だ」

盟友・田淵氏をコーチに招へい。田淵氏にとっても久々のタテジマだ
就任後、すぐ親友で
阪神OB、
田淵幸一に電話を入れ、コーチ招へい。「地獄まで付き合うわ」の田淵の言葉に「地獄まで落ちたら困るんだけどな」と返すと、田淵は「地獄だけじゃない。天国にも付き合うよ」と言って笑った。さらに、古巣
中日で二軍監督として残留が決まっていた、懐刀の
島野育夫をコーチとして招いた。
おそらく、星野仙一というカリスマに対し、中日ファンが一番引っかかっているところだと思う。あとを託した
山田久志監督にしても当初は受け入れがたい気持ちもあったのではないだろうか。
みなさんの意見を誘導するつもりはない。
ただ、一度、動き出した星野監督は、もう止まらなかった。
前回は一気にキャンプ初日の話まで行ってしまったが、やや時計の針を戻し、就任決定直後のインタビューから当時の心境がうかがえる言葉を拾ってみたい。
1月5日、監督就任後、初めて甲子園球場の土を踏み、「ここが俺の死に場だ」と言った、すぐ後だ。
──初めて中日の監督になられたときよりも、かなり難しいのでは。
星野 数倍のエネルギーがいるだろうね。でも、本当に体がボロボロになってもいいからやろうと思っています。「打倒
巨人」と言われるけど、いまのところは「打倒タイガース」だね。内堀をしっかり固めて、それから戦いだ。
──そういう気持ちは要請を受けてから。
星野 いろいろなプロセスがありましたからね。それを語ったら1冊じゃ足りないから言わないけど、人間として野球人として、燃えさせるものがあったんですよ。それで、タイミングがバッチリと合った。タイミングというのは出合い頭だからね。今回は、ものすごい大きな、甲子園球場の場外へ飛び出すほどの出合い頭ですよ。それも最後の。
──最終的に星野さんの血がグラウンドを向いた。
星野 60歳までは現場で、という人生観があったんですよ。テンションが最初のころに戻ったというのは、気力の部分でね。何かが吹っ切れて、新しい自分を見つけたような気がして、どんどんテンションが上がっていったんです。人間にとって気というのはものすごく大切なんだと、改めて感じました。ただ、それを持続しないといけない。選手に求めるなら、お前が最低でも1年間、ずっとその気持ちを持ち続けなければいけないんだということを、自分に言い聞かせています。
1年目のスローガンは「NEVER NEVER NEVER SURRENDER」に決まった。星野監督は「決して負けない。決してあきらめない。決してへこたれない。いまの日本で最高のスローガンだよ」と言って笑った。
<次回へ続く>
写真=BBM