星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略) ライトオーバーのサヨナラ打

サヨナラ打の赤星をぎゅっと抱きしめる
マジック2で迎えた2003年9月15日の
広島戦(甲子園)は、8回表を終わって1対2と広島にリードを許す展開となった。ちょうどこのころ、横浜とマジック対象だった
ヤクルトの試合が開始。ヤクルトがいきなり3点を取ったという情報が入っている。
V決定は先送りかの雰囲気もあったが、8回裏、二番手のリガンの代打で先頭打者として登場した
片岡篤史が同点弾。一気に甲子園が沸き立ち、ボルテージが高まる。その直後、横浜が同点に追いつき、さらに勝ち越した。スマホの時代ではない。多少の時間差はあるが、それは
阪神ナイン、さらには甲子園のファンにも伝わり、球場は異様なムードとなっていく。
9回裏、広島が一死から満塁策を取り、打席には
赤星憲広。星野監督がベンチから飛び出し、赤星に何やらアドバイスを送った。
初球だった。赤星がバットを振り抜き、ライトオーバーのサヨナラ打。星野監督が、戻ってきた赤星をぎゅっと抱きしめたシーンは、いまも記憶に新しい。
これでマジック1。あとはヤクルトの結果待ちだ。
19時15分、一度ベンチ裏に引き揚げた監督以下全ナインが一塁側ベンチに降りてきた。横浜の6点リードで試合は9回裏。スタンドではウエーブが起こり、選手もそれに合わせ、ジャンプする。選手とファンが一体となり、“そのとき”を待った。
19時33分、ヤクルトが敗れ、阪神の18年ぶりのリーグ優勝が決定。選手が次々飛び出し、マウンド近くで歓喜の輪をつくる。そして星野監督の胴上げだ。笑顔の77番が7度、宙を舞った。
優勝インタビュー。第一声は「あ~しんどかった」。
「当然それは本音だった。ずっと負けてきたチームじゃない。いつ“病気”が出るか分からないから。十何年も上ばかり見てきたチームが、久しぶりに下を見て戦っている。だから、
楽天でもそうだったけど、選手には『上も下も見るんじゃねえ。真っすぐ見ろ』と言い続けていたね。いつもエコノミーの一番後ろに座っているヤツが、ファーストクラスに座っているんだから。だから、僕は選手の感覚がずれてくることを恐れていたんだ。
赤星がサヨナラ安打を放ったとき思わず抱きしめたけど、男にそんなことをしたのは初めてだったな(笑)。ただ、僕が一番グッときたのはその後、オーロラビジョンに流れるヤクルト戦をベンチで見ていて、あと1アウトになったとき。みんなが誰もいないマウンドに飛び出そうと、構えている。喜びを爆発させる寸前。それを横から見ていたとき、本当にすごい喜びが体中を駆け巡ったね。
ファンから『ありがとう』と言われたのも印象的だった。そういう喜びの表現があるんだな、と。『ありがとう』というのはチームにも、僕にも、選手個人にも言っていること。パレードではじいちゃん、ばあちゃんが正座して、手を合わせているんだよ。あれを見てもグーッと来たね。
タイガースファンはバカで、おもろい、大切な仲間。本当に一緒になって戦った。時には叱咤激励もしてくれる。十何年も勝っていなかったんだから、ヤジは言われて当たり前だと僕は言ったよ。ヤジ賛成だから。それに打ち勝て、と。ヤジの一歩上を行って、お前のおかげやと言われるようになれ、とね」(阪神80年史)
優勝決定、さらにセレモニーとずっと笑顔だった星野監督だが、一瞬だけ感極まった瞬間がある。
島野育夫コーチが扶沙子夫人の遺影を持っているのを見つけたときだ。星野監督はうつむき、顔を隠して大泣きした。
<次回へ続く>
写真=BBM