星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略) 満面の笑顔で就任会見

日本代表監督就任会見にて
2005年、まさかの
巨人監督就任かと騒がれた時期もあったが、結局実現しなかった。
次なる動きがあったのは、07年1月25日だ。全日本野球会議・日本代表編成委員会が行われ、星野仙一は08年北京五輪の日本代表監督に選ばれた。12年のロンドン大会からは野球が競技種目から外されるため、北京が野球のオリンピック最後となる可能性もあった。
「非常に光栄なことです。プレッシャーがますますかかってくるな、というのが正直な気持ちです。私も取材でアテネ五輪に行って、日の丸を背負った選手が必死になって頑張っている姿に感銘を受けました。そして、そのときに私もあの場に立ちたいな、と少年のような気持ちになりました」
満面の笑顔で就任会見に臨んだ星野監督。29日には盟友・
田淵幸一、
山本浩二、さらに前回アテネ五輪でも投手コーチだった
大野豊のコーチ就任も発表した。
「この3人(田淵、山本と自分)で戦ってみたいのが、若いころからの夢。大学時代から40数年のライバルであり、友人関係を結んできましたが、『仲良し軍団』ではありません。厳しく、親しく野球と接してきた。大野コーチはアテネの経験もあり、力になってもらおうと。4本の矢になって日本代表を率い、北京に乗り込みたい」
さらに「魅せながら、感動させながら、怒らせながら、泣かせながら、野球に対して感情移入できるようにして、なおかつ最後には喜ばせる、というのが私の仕事だと思っています」と、いつもの星野節で語った。
ただし、おそらくは星野監督自身も危惧していたとおり、“お友達首脳陣”の揶揄は少なからずあった。選手自身を鼓舞するための言葉、「金メダルしかいらない」が高飛車に響いた面も否めない。さらにいえば、日本代表は06年のWBCでメジャー・リーガーたちが参加したチームと戦い、世界一に輝いている。「メジャーのいないオリンピックなら優勝で当たり前」の声もあった。
大舞台では当たり前にことではあるが、それらは目に見えぬ重たい空気のように、星野監督だけでなく、その後、結成されたチームの選手たちを覆っていくことになる。
<次回へ続く>
写真=BBM