星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略) 負けられない戦いに勝利

台湾の空を舞う星野監督
2007年1月25日の日本代表監督就任から10カ月、選手選考に頭をひねり、プレ五輪で実戦感覚を取り戻した星野監督の顔は、神戸での合同自主トレ、宮崎での強化合宿、福岡での壮行試合とスケジュールを消化していくにつれ、徐々に「闘将」のそれに近づいていった。
「いい試合でも悪い試合でもいい。とにかく3つ勝って、北京の切符を持って帰ってきます」
そう言って臨んだのが、同年12月1日から台湾で開かれた北京五輪アジア地区最終予選だった。
日本に対抗する力を持つのは韓国、台湾だけだったが、なにせアジアからの出場枠は「1」だ。まさに負けられない戦いとなった。
初戦フィリピンを7回
コールド10対0で破った星野ジャパンだったが、翌2日は最大の強敵・韓国戦。試合前、円陣を組むと、星野監督は、
「きょうこの日に懸けてきた。絶対、勝つぞ!」
と絶叫した。
中日、
阪神時代はコーチや選手にさせていたことだ。いかにこの日の心境が尋常ではなかったかが、わかる。
試合は4時間を超える死闘になった。1回裏に先発・
成瀬善久がいきなり一発を浴びるも、2回表に逆転。3回表には打撃絶好調の
阿部慎之助の適時打で2点差とした。成瀬は4回に2点目を失い、
川上憲伸にスイッチ。川上はランナーを出しながらも粘りのピッチングで、
岩瀬仁紀にリレーする。
この岩瀬がキーマンとなった。6回途中から8回まで46球の熱投で韓国を打線を封じ込め、9回は守護神・
上原浩治が抑え、4対3の勝利だ。
勝利者インタビューで星野監督は「選手が気合が入って、必ず信じて勝てると……。なんだ俺、何をしゃべってるんだ」と真っ赤な顔で首をひねった。幾多の修羅場をくぐったはずの男にとっても、日の丸を背負うという重圧は半端なものではなかったのだ。
勝てば無条件、1対2で敗れても失点率の差で出場が決まる、3日の台湾戦。日本は1回に1点を先制も6回に
ダルビッシュ有が陳金鋒に一発を浴び、逆転を許した。
だが、直後の7回、すぐさま反撃。
大村三郎が無死満塁からスクイズを決め、同点に追いつくと、そのまま一挙6点。最終的には10対2の大勝で北京の切符をつかみ、星野監督は台湾の空を高々と舞った。
もちろん、まだ前哨戦に過ぎなかったのだが……。
<次回へ続く>
写真=小山真司