背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。 選手は圧倒的な少数派
記録に残っているもので、70番台の背番号が最初に登場したのは1955年。
中日で二軍コーチの塚越正宏が着けたのが第1号だ。60年に近鉄で
林義一コーチが第2号となると、61年に南海で5選手が着けて、62年には他のチームにも一気に普及した。
その後は指導者の背番号というのが一般的となり、選手が70番台の背番号を着けているのは異例と言える。ただ、
DeNAの
中畑清監督も着けていた「70」だけは、そんな異例の中の例外だ。系譜にも好選手が少なくなく、迎えた2018年も
ヤクルトの
近藤一樹ら現役選手が優勢となっている。
【主な背番号70番台】
「#70」
古沢憲司(
阪神)、福浦和也(ロッテ)、
田上秀則(
ソフトバンク)、中畑清(DeNA監督)、近藤一樹(ヤクルト)☆
「#71」
仰木彬(近鉄監督)、
広岡達朗(ヤクルト監督)、
秋山幸二(
西武、ソフトバンク二軍監督)、
落合英二(中日)、ブラウン(
広島監督)
「#72」
古葉竹識(広島監督)、
牧野茂(
巨人コーチ)、仰木彬(
オリックス監督)、
権藤博(横浜監督、中日コーチ)、
真弓明信(阪神監督)
「#73」
金田正泰(阪神監督)、
藤田元司(巨人監督)、
野村克也(ヤクルト監督、阪神監督)、
梨田昌孝(近鉄監督)、
伊原春樹(西武監督、オリックス監督)
「#74」
山口高志(阪急・オリックスコーチ)、
土橋正幸(ヤクルト監督)、
達川光男(晃豊。広島監督)、チェン(中日)、
西口文也(西武コーチ☆)
「#75」
加藤博一(西鉄)、
阿南準郎(広島監督)、
土井正三(オリックス監督)、
若松勉(ヤクルト監督)、
小山伸一郎(
楽天コーチ)☆
「#76」
野崎泰一(広島監督代行)、権藤博(中日コーチ)、
中村稔(巨人コーチ)、
島野育夫(中日コーチ)、
田辺徳雄(西武コーチ)
「#77」
川上哲治(巨人監督)、
星野仙一(中日監督、阪神監督、楽天監督)、
大島康徳(
日本ハム監督)、
真中満(ヤクルト監督)、
野村謙二郎(広島監督)
「#78」
三村敏之(広島監督)、
門田博光(オリックス)、
東尾修(西武監督)、
西村徳文(ロッテ監督)、
福良淳一(日本ハムコーチ、オリックス監督)☆
「#79」
藤本和宏(西鉄)、
吉田孝司(巨人コーチ)、秋山幸二(ソフトバンク二軍監督)、
小林繁(日本ハムコーチ)、
緒方孝市(広島監督)☆
(☆は2018年)
阪神には投打のバイプレーヤーも

阪神・古沢憲司
「70」を出世番号としたのがロッテの福浦和也だ。ドラフト7位という下位指名で、全球団の最終指名でもあった。入団時は投手だったが、肩を壊して野手に転向したことが奏功する。2年目には一軍デビュー、「70」ラストイヤーとなった97年に一塁の定位置をつかみ、「9」で長い活躍を続けた。21世紀に入ると、中日を解雇されてソフトバンクにテスト入団した田上秀則が「70」で覚醒、09年にはベストナインに選ばれている。
「70」には古くにも名選手がいて、64年に阪神の2代目となったのが“バーディー”古沢憲司。高校を中退して16歳で入団。1年目から一軍登板を果たし、2ケタ勝利は通算4度を数える右腕だ。
阪神でさらに古い70番台の名選手は63年に阪神の「72」初代となった
野田征稔。PL教団から入団した異色の経歴を持ち、選手としてメンバー表に名前が載るのは「38」となった64年から。主に二塁を守り、73年にはリーグ最多の21犠打をマークした職人選手だ。
写真=BBM