気配りの人でもあった
「例えば左手を痛めたら“右手一本で打つにはどうしたらいいか”と考えていました。いつも、“このケガが選手として致命傷になってもいいのか”と自問自答するんですけど、いつも“いい”って言うんですよ、もう一人の自分が」
「(ケガは)痛いのは痛いですけど、一日24時間の中で、バット振るのに何秒間痛いか、打球捕って投げるのに何秒間痛いか、っていうふうに考えると、“それぐらい我慢できるだろ”ということになっちゃうんです」
それらの言葉を聞いて、「やはり鉄人と言われる人は、“どうやったらサボれるか”という方向から物事を考えるわれわれとは、考え方のベクトル自体が違うんだな」と感じたことを思い出す。
衣笠祥雄氏が亡くなった。いまさら説明の必要もないかもしれないが、
山本浩二氏とともに1975年の初優勝へとカープを引っ張り、以降の赤ヘル黄金時代のチームをけん引、当時の世界記録となる2215試合連続出場を記録し、「鉄人」と呼ばれた選手だ。87年には日本プロ野球界で2人目の国民栄誉賞も受賞している。
不倒の鉄人が世を去るときが来ようとは、にわかには信じられないが、訃報に接し、思い出したことどもを、少しつづらせていただく。
衣笠氏には、何度かじっくりと話をうかがう機会を得たが、テレビの解説でおなじみのあの口調のまま、どんな質問にも、優しく丁寧に答えてくれる方だったのが印象に残っている。バッティングの連続写真をご自身で解説していただいたときもそうだ。
同氏の持ち味は大きなステップでのフルスイング。通算504本塁打を記録している。
「構えたときとステップした後で、これだけ頭の高さが変わったら、ボールに当てるの大変じゃないですか?」と、超一流選手に対していささか生意気な質問をしたときも、「踏み出しながら着地するまでにボールを見極めているからいいんですよ。まあ、不器用ですが、誰にでもできる打ち方じゃないですよ」と笑って答えられた。
こちらはむしろ、その短時間でボールを見極め、反応する反射神経に感心することになったわけだ(ちなみに衣笠氏は、MVPと正力賞を受賞した84年には、打率.329でリーグ2位、打点王にもなっている。率のほうに照準を合わせれば、それぐらい打てるのだ)。
こちらが同じ京都府の出身だと話したのを頭の片隅に残していただけたのか、記事が出来上がった後に、わざわざ編集部にお礼の一言とともに色紙を送ってくださったり(もちろん、こちらからお願いしたものではない)、そういった気遣いまでしてくださる方だった。
そんな衣笠氏だが、取材の中で一度だけ、“拒絶”された質問があった。若き日の武勇伝に話を振ろうとしたときだ。
「いやあ、そんなことはないですよ」。いつもと変わらず、笑みをたたえながらではあったが、そこには言外に「そこについては答えませんよ」という雰囲気が漂っていた。
この年代のプロ野球選手なら、まあ若き日の武勇伝の一つや二つあって不思議はないはずだし、興が乗れば「オフレコで……」となってもよさそうなものだが、なぜにそこだけ「拒否られた」のか……。こちらの聞き方が悪かったのか??
おそらく、衣笠氏は気を使ったのだ。こちらにではなく、「国民栄誉賞」という賞に。ひいては、その賞を受けた、他の人たちにも。「何とも不自由なことだなあ」とも思うが、とっさにそこまで気が回るところが、やはり衣笠氏の人柄であったのだと思う。安らかにお休みください。合掌。
文=藤本泰祐 写真=BBM