80年を超えるプロ野球の歴史は、それぞれの球団、それぞれの監督や選手たちが紡いできたものだ。1人1チームを原則に、名将、名選手たちが時空を超えて集結。オールタイムの“優勝チーム”を探してみよう。 色褪せない大阪時代
1938年に結成され、秋季リーグ戦から参加。戦後、プロ野球が復活すると、山本(鶴岡)一人が監督と四番打者を兼ねて初優勝に導いた。50年代には3連覇を含む5度の優勝。59年には宿敵の
巨人に日本シリーズで4連勝、2リーグ制となって初の日本一に。60年代も3連覇を含む4度の優勝、64年は2度目の日本一。73年には四番打者、捕手、監督の3役をこなした野村克也の采配が光って“死んだふり優勝”も、これが最後の栄冠となった。
のちに福岡へ移転し、ダイエーを経て
ソフトバンクとなるが、ここでは南海時代の88年まででオーダーを組んでみる。
【ベストオーダー】
監督・
鶴岡一人 一(中)
広瀬叔功 二(右)
杉山光平 三(指)
門田博光 四(捕)野村克也
五(一)
飯田徳治 六(左)
堀井数男 七(遊)
木塚忠助 八(三)
蔭山和夫 九(二)
岡本伊三美 投手
杉浦忠 率いるのは鶴岡監督。優勝回数の多いチームだが、優勝監督は鶴岡と野村のみ。唯一の日本一監督でもある鶴岡は、優勝経験でも野村を圧倒している。ラインアップも50年代の黄金時代を築いたメンバーが中心。当時は当然、九番は投手の打順だったが、阪急は75年から採用された指名打者制を経験したチームのためベストオーダーには野手を並べた。歴代屈指の長距離砲2門がクリーンアップに挟まることで、変則的な打順となった。
四番は歴代2位の通算657本塁打を残した野村。同3位の567本塁打を放った門田は、野村兼任監督時代の三番に入った。50年代前半の四番、五番は“繰り下げ”で、五番に飯田徳治、六番に堀井数男。逆に七番から九番までは木塚忠助、蔭山和夫、岡本伊三美が並び、その50年代の一番から三番と同じ並びとなっている。
ここでの一番は日本一イヤーの59年にリードオフマンとして打線を引っ張った広瀬叔功。二番には、前年の58年は広瀬に続く二番打者だった“円月打法”の杉山光平を据えた。打撃3冠に盗塁王の経験者がズラリと並び、破壊力と機動力を兼ね備えた強力打線。下位からも一番から始まるのと同様の得点パターンが組める。
内野は“100万ドルの内野陣”のまま。当時の司令塔は
筒井敬三だったが、ここでは野村がマスクをかぶる。内野守備は最強だ。堀井と広瀬の外野守備もハイレベル。外野手の門田はアキレス腱断裂から定位置となった指名打者に。守備に不安はなさそうだ。
“血染めのエース”を筆頭に
南海・杉浦忠
エースは59年に“血染めの4連投”で日本一の立役者となった杉浦忠。64年のMVPが
スタンカだ。50年代前半には51年に防御率1位の
服部武夫、2位ながら同年の規定で戴冠した
柚木進、最多勝の
江藤正もいた。
短命に終わった杉浦とは対照的に、同じサブマリンで15年目の68年に31勝を挙げて最多勝となったのが
皆川睦男(睦雄)。70年代には
江本孟紀、80年代には
山内新一、孝徳、和宏の“山内トリオ”もいる。
クローザーは「球界に革命を起こした」
江夏豊と、それ以前から救援専門の投手として活躍していた
佐藤道郎の二枚看板だ。実際は宿敵の巨人に分が悪かったが、
阪神時代はV9の巨人に牙をむいた江夏の存在もあり、ここでは巨人とも好勝負を繰り広げそうだ。
攻守ともに高いレベルでバランスのいい充実の布陣で、再び巨人を倒して悲願の日本一を目指す。
写真=BBM