忘れてはいけない記憶
4月29日の本拠地開幕戦でも嶋はスピーチ。「絶対に見せましょう、東北の底力を」
西日本豪雨により多くの人が亡くなり、いまなお、たくさん人が苦しんでいる。
大きな災害が起きた後、いつも思う。
プロ野球はどうあるべきか、何をすべきなのだろう、と。
創刊60年を迎えた週べの歴史を球団別に紹介していく企画。7月は30日発売予定で「
東北楽天ゴールデンイーグルス編」を制作している。
その中で見つけた2011年の記事を加筆、修正し掲載する。
我々、プロ野球に携わるものみなが忘れてはならない記憶だと思う。
2011年、楽天にとって特別な試合が用意されていた。
球団創設7年目で初となる、本拠地での開幕戦だ。
だが、3月11日、未曽有の大震災が東日本を襲う──。
本拠地球場がある仙台、そして東北各地に甚大な被害をもたらし、日本中が動揺し、悲しみに包まれた。当然ながら混乱は、開幕を2週間後に控えていたプロ野球にも及んだ。
このとき、セ、パで意見が食い違った。開幕の予定は3月25日のセ・パ同時開催だったが、3月17日には、パが4月12日に延期、セは従来どおりの3月25日の開幕と決定された。
セの決定には、各所に批判の声が殺到。選手会も開幕延期を要望する声明文を提出し、NPBの監督官庁である文科省も再考をうながした。
セは一度、29日に延期したのち、再びの反対を受け、ようやく「4月12日セ・パ同時開幕」が決定。
新井貴浩(当時
阪神)プロ野球選手会会長は「選手会の声、ファンの声がようやく届いた」と涙を浮かべながら語った。
当時、楽天の選手の心は大きく揺れ動いていた。
震災から2日後、
巨人の室内練習場で練習。そこで主将の
鉄平が心情を吐露した。
「やっぱり仙台、宮城、東北の方々が心配でなりません。家族もそこにいますから、正直、練習に100パーセント集中はできていません」
選手会長・
嶋基宏の「野球をするよりも、1日でも早く被災地に行って、がれきの一つでも片づけたい」も本音だろう。
安全面を考慮され、約1カ月続くことになった遠征の間、選手からは「早く戻りたい」の声が続出し、話し合いが深夜に及ぶことも多かったという。
それでも「帰れないのなら、いまできることをやろう」と、先々で義捐金を募り、物資を被災地へ送った。
選手が懇願し続けていた帰仙がかなったのは4月7日だった。
翌日には避難所を訪れ、「遅くなって申し訳ありません」と頭を下げた。
小学校を訪問した
田中将大は、選手の訪問に喜ぶ子どもたちとの間に割り込み、邪魔するような形となった報道陣に対し、「僕たちは、そのために来たんじゃないです」と声を荒げた。
田中は、避難所で過ごす人たちの強さ、温かさを目の当たりにし、逆に勇気づけられ、あらためて思ったという。「これから、みんなと一緒に戦っていきたい」と……。
そして4月29日、Kスタ宮城で初めての試合。2万人超の大観衆が声援を送った。
先発し、完投勝利を飾った田中は「終わってしまうのが、もったいないくらいの声援だった」と振り返った。
いま思えば、開催日をめぐる騒動は、プロ野球と被災者、さらに多くの野球ファンとの距離を確実に広げるものだった。
にもかかわらず、当時、そのことに気づいていない関係者がたくさんいた。
当時は、本当にいろいろなことがあった。それらを単純化し、一部だけを美化しようというわけではない。
ただ、この球界の危機を救った大きな要因が、4月2日、チャリティーマッチとして札幌ドームで行われた
日本ハム戦での嶋のスピーチ、言葉の力だったと思う。
楽天・
星野仙一監督は「聞いていて涙がこみ上げてきた」と真っ赤な目で言った。
全文をあらためて掲載しよう。
あの大災害、本当にあったことなのか、今でも信じられません。
僕たちの本拠地であり、住んでいる仙台、東北が今回の地震、津波によって大きな被害を受けました。地震が起きたとき、僕らは兵庫県で試合をしていました。家がある仙台にはもう1カ月も帰れず、横浜、名古屋、神戸、博多、そしてこの札幌など、全国各地を転々としています。
先日、私たちが神戸で募金活動をしたときに、「前は私たちが助けられたから、今度は私たちが助ける」と声をかけてくださった方がいました。
いま日本中が東北をはじめとして、震災に遭われた方を応援し、みんなで支え合おうとしています。地震が起きてから眠れない夜を過ごしましたが、選手みんなで「自分たちに何ができるか」「自分たちは何をすべきか」を議論し、考え抜きました。
いまスポーツの域を超えた「野球の真価」が問われています。
見せましょう、野球の底力を。
見せましょう、野球選手の底力を。
見せましょう、野球ファンの底力を。
ともに頑張ろう東北! 支え合おうニッポン!
僕たちは野球の底力を信じて、精いっぱいプレーします。被災地のために、ご協力をお願いいたします。