
左が牛島、右は香川。ふだんはあまり口をきかなかったという
100回の記念大会を迎える夏の甲子園。週べオンラインでも、本大会開幕まで、甲子園を沸かせた伝説のヒーローたちを紹介していこう。
高校野球と野球漫画の親和性はかなり高い。
友情、努力、勝利。これが『少年ジャンプ』の三原則と聞くが、その三要素が完ぺきにそろう世界ではある。
ただし、あまりジャンプから人気野球漫画が出ないとも聞く。
それはそうだろう、とも思う。
高校野球の魅力は勝利だけではないからだ。
むしろ、勝ちたいと願い、すべてをなげうってもなお、届かなかった敗者たちの球児のドラマが心を打つ。
というか、最後の1チーム以外はすべて敗者。特に夏は最後まで一発勝負だから壮絶だ。
失礼、今回は野球漫画論ではない。
野球漫画の金字塔とも言えるのが、水島新司先生の『ドカベン』であることは、多くの人たちが賛同してくれるだろう。
やや太めながら、天才的な守備と打撃を誇る明訓高のキャッチャー、山田太郎を主人公に、多くのワキ役たちが、ときに山田を超える輝きを放った傑作群像漫画。この漫画にあこがれて野球を始めたというプロ野球選手も珍しくない。
その『ドカベン』を自らのニックネームにしたのが、浪商の捕手・
香川伸行だ。
身長172センチ、体重は公称92キロ。ニコニコといつも笑顔を浮かべていたが、実は、その動きは俊敏で野球センスも抜群。特にバットコントロールには天才的なものがあり、決して見た目だけが漫画の主人公に似ていたわけではない。
入学後、すぐレギュラーになると甲子園には78年春、79年春夏と3回出場。通算11試合で打率.400、12打点をマークしている。ただ、香川自身は「僕は漫画を読まないから最初はなんのことか分からなかった。そのうち人に教えてもらってアニメを見たりして、ああそうなんやって」とのことだった。
徳島県に生まれ、大阪へ引っ越してきた。本人はずっと「徳島出身」にこだわり、「大阪出身」と言われるたびに訂正していた。
大体大付属中から浪商(現・大体大浪商)入学。中学の先生から「お前は浪商であいつとバッテリーを組むんや」と言われたのが、四条中のエース、
牛島和彦(のち
中日ほか)だった。
かつては全国制覇もあった強豪・浪商だが、当時甲子園から遠ざかり、低迷期にあった。
巻き返しのキーマンとして、牛島─香川のバッテリーを軸に3年計画を立てたのだ。
香川は1年の秋季大会から四番に座り、高松商(香川)相手に1回戦負けだったが、2年のセンバツにも出場している。
続く夏は大阪大会で初芝に敗れ、代表となったPL学園が全国制覇。秋季大会もPLに敗れたが、2位通過で近畿大会に進み、今度は優勝。2年連続のセンバツ出場を決めた。
牛島もまた、1年夏からエース格として投げ始め、秋から背番号1に。3年のセンバツでは愛知、高知商、川之江(愛媛)、東洋大姫路(兵庫)とすべて完投勝利を飾っている。
準々決勝の川之江戦は、延長13回を投げ抜き、準決勝の東洋大姫路戦の翌日が決勝の箕島(和歌山)戦だった。
疲労から13安打を浴び、7対8で敗れたが、この試合もまた一人で投げ切っている。
「立っているのがやっという感じ。気持ちだけで投げました」と振り返る熱投だった。
この大会では、愛知戦で香川が放った130メートルの特大弾も印象深い。「ドカベン香川」の名を全国に轟かせた一発となった。
牛島はセンバツ直後に腰を痛めたが、痛み止めの注射を打ちながら夏の大阪大会を投げ続けた。決勝の相手は宿敵PL。大観衆が集まり、日生球場が例外的に外野を解放したほどだ。この試合に勝利し、浪商は18年ぶりの夏の甲子園出場を決めている。
香川は夏の甲子園で2回戦の倉敷商戦(岡山)から
広島商戦、比叡山戦(滋賀)と3試合連続本塁打を放った。
春に打った2本を含めて史上最多本塁打記録を塗り替えことになる(それまでの4本は第一神港商の
山下実。のち阪急ほか)。
一方、牛島も腰痛を抱えながらも泣き言ひとつ言わず、黙々と投げ続けた。バットでも初戦の上尾(埼玉)戦で、0対2で迎えた9回二死に起死回生の同点弾。試合は11回で勝利を飾っている。
準決勝で池田(徳島)に敗れたが、大会ナンバーワン投手とも言われ、その評価は間違っていない。
2人は甲子園史上に残る黄金バッテリーだ。
細身でクールな投手・牛島と、太めでいつもニコニコの香川は両極端のように見え、ふだんは、別に仲が悪いわけではないが、ほとんど口もきかなかったらしい。
ただ、ともに「別に仲が悪かったわけじゃない」という。
たぶん、それは根っこの部分が似ていたからこその距離感だったのだろう。
香川は「慣例なのかもしれんけど、牛島─香川と投手から言われるのが嫌だった」と言い、牛島は牛島で「香川─牛島と書かれることが多かったんで、いつか逆転してやろう」と思っていたという。
共通点は、ともに並外れた負けず嫌いだったことだ。
香川は2014年死去。牛島は「さびしい。早すぎる。体が悪いのは知っていたが、強い運を持っているからきっと乗り越えられると思っていた」と語った。