いよいよ100回目の夏の甲子園が始まる。『週刊ベースボール』では、オンライン用に戦後の夏の甲子園大会に限定し、歴代の名勝負を紹介していきたい。 史上まれに見る投手戦を展開

ともに18回を無失点で抑えた徳島商・板東(左)と魚津・村椿
1958年8月16日
第40回=準々決勝
徳島商(徳島)0-0魚津(富山)
※延長18回
蜃気楼が見られる港町「魚津」の名を、野球でも一躍全国に知らしめたのが1958年夏の準々決勝、優勝候補・徳島商との一戦だった。エース・村椿輝雄は速球とカーブを低めに集め、打たせて取るクレバーな投手。対する徳島商・
板東英二(のち
中日)の剛腕ぶりは、プロのスカウトの中目を一身に集めていた。この対照的な剛と柔が球史に残る投げ合いを演じた。
初回、魚津の守りが1つのポイントだった。立ち上がり二死二塁とされ、さらに四番・板東がレフト前ヒットを浴びるも、村椿自身がカットに入る独特の連係プレーで二塁走者を本塁で刺し、徳島商に先制点を許さなかった。
ここから村椿は徐々に調子を取り戻す。板東も4回までは荒れ気味だったが、5回から8回まで一人の走者も出さずエンジン全開。両投手一歩も譲らず、試合は0対0のまま、延長戦に入った。
さらにゼロ行進は続き、10回から17回まで板東、村椿とも許した走者は3人ずつ。それでも最後、18回は互いの打線が意地を見せた。徳島商は一死一、三塁としたが、スクイズが捕邪飛。直後、一、三塁の走者がディレードスチールを仕掛けたが、捕手からの送球をカットしてすぐさま本塁へ返球した二塁手・平内政次の好判断で三走が本塁手前でタッチアウトとなる。
逆にその裏、魚津は一死後、河田政之助が中堅越えの長打。普通なら悠々三塁打と思われたが、フェンスに当たった打球がちょうど追いかけてきた中堅手に勢いよくはね返り、河田は徳島商の中継プレーで三塁アウトとなった。
結局、この夏から制定された「延長18回引き分け再試合」適用の第1号となった。この試合、25奪三振の板東は、18回を終わったとき、審判に「明日も頑張れよ」と言われ、初めてこの制度を知ったという。なお、この制度の誕生自体、坂東がきっかけだった。同年の春季四国大会での高知商戦で延長16回、翌日の高松商戦で延長25回の計41回を板東一人で投げ切ったが、いくらなんでも体に良くないということで、同制度が採用されたのだ。
ただし、当の板東は、のちの取材で「18回といってもナイターで試合時間も3、4時間。なんにもつらくない。快適です。練習のほうがずっとつらかった」と真顔で語っている。そのくらい当時の徳島商の練習は厳しかったらしい。
続く再試合、村椿は先発を回避したが、板東は先発。結局、徳島商が3対1で勝利した。その後、徳島商は、準決勝で作新学院(栃木)にも勝利したが、板東が「初めて勝ちたいと思って投げた」という決勝では、柳井(山口)に0対7で敗れている。
写真=BBM