もう引退するつもりだった

この年の10月6日、胴上げ投手は俺、ほえてるねえ
あの日も、いつものようにジャイアンツ球場で全体のアップをし、軽くランニングの真似事をしたら、
「お先で~す」
と言って帰ろうとした。
1996年は
広島からFAで
巨人に移籍し2年目。結果を出せずに4月末に二軍に落とされた。もう決めてた。今年で引退しようって。
そのとき、黒いサングラスをかけたコワモテのおっさんに声を掛けられたんだ。
「川口、もう帰るのか!」
俺は、ヘラヘラと笑いながら、
「はい、帰ります。僕、今年で引退ですから。すいません、給料泥棒で」
と言った。いま思えば、カッコ悪いけど、完全に気持ちが切れていたんだ。
そのおっさんが、当時の二軍コーチ・
宮田征典さんだった。
現役時代は抑えのパイオニアとも言われ、1965年巨人V9初年度に投げまくって20勝5敗。当時、セーブ制度はなかったけど、あったら22セーブがついていたらしい。
ナイターだと、いつも8時半ごろの登板になるから「8時半の男」とも言われた伝説の男だ。
引退は69年限りと早かったけど、すでにたくさんのチームで投手コーチとして実績があった大ベテランのコーチだった。
『スクールウォーズ』とか青春ドラマだったら、宮田さんにバシンと一発殴られ、泣きながら2人で抱き合うところだけど、ここはシビアなプロの世界、しかも、俺はもう36歳だったしね。
宮田さんもほっといてもおかしくないんだが、粘ってくれた。
「なに言ってるんだ。まだできる。もう1回、花を咲かせよう。もう一度練習しよう」
熱かったね。
ただ、俺はすねてたわけじゃない。ほんとに限界だと思っていたんで、
「いやあ、宮田さん、無理ですよ。もう1試合もちませんから」
と言ったら、「リリーフでいいじゃないか。俺は現役時代、リリーフだけで生きてきたんだ。お前も抑えできるように頑張ってみないか」と……。
気持ちが前向きになった。単純だと思うかもしれないけど「その手があったか、もう一度やってみよう」と思ったんだ。
幸運もあって一軍に
95年、FAで巨人に移籍したとき、正直言えば、ほぼ先発のパフォーマンスは60パーセントしか出せない状態だった。成績を見てもらえば分かるけど、91年を最後に2ケタから遠ざかっていたしね。
ただ、小さいころからあこがれてた
長嶋茂雄さんに誘っていただいて、ジャイアンツで、もう1回やり直そうと思ったんだ。まだ、できるかもしれない、いや、できるはずだって。
でもダメだった……。
95年は4勝しかできなかった。随分、ヤジられたけど、それは気にならなかった。プロは結果を出せなきゃ何を言われても仕方がない。
それに打たれても悔しい、にならなかったんだ。ただ、せっかく取ってくれた巨人、そして長嶋さんに申し訳なくたまらなかっただけ。
あのころ、野球をやっていてもまったく楽しくなかった。
引退も頭にあったけど、当時のトレーナーが一生懸命ケアをしてくれた。もう1年やってみようと思って、ゴジラ、
松井秀喜もやっていたPNFをやって、次の春季キャンプは136キロくらいになっていたストレートが145キロになったんだ。体も80パーセントくらいまでにはなった。
でも、96年は開幕から結果が出ず、二軍へ。そこで出会ったのが宮田さんだった。
宮田さんに言われ、フォームを変えた。
それまでの俺のフォームは足を大きく上げて、体全体をダイナミックに使って投げるフォーム。ステップは7歩半だった。
宮田さんは、それを5歩半にし、テークバックをコンパクトにしろ、と言った。
実際、やってみたら球速はむしろ上がり、制球もよくなった。体もそれまでは体全体が張ったのが、すごく楽になった。
よかったのは、この年のチーム状況。前半戦もたついて首位に11.5ゲーム差をつけられ、そこから逆転した「メークドラマ」の年だった。
もたついた要因の1つが抑えの不在。お化けフォークのマリオがしばらく活躍したけど、クセを覚えられて1カ月しかもたなかったしね。
抑えを探していた時期に、たまたま俺はファームで結果を出して一軍に呼ばれたんだ。
6月に上がって、しばらくは先発とリリーフの併用だったけど、先発はいま一つ。それで8月末からリリーフだけになった。
記録を見たら、それが8月29日だったけど、そこから優勝争いの中で17試合に投げて失点、自責点とも1だけ。自分で言うのもなんだけど、貢献したと思うよ。
だからこそ、長嶋監督も10月6日、優勝決定試合の胴上げ投手に俺を指名してくれたんだと思う。
あの年、いや最後の2カ月だけだけど、俺は宮田さんと同じ「8時半の男」になれた。俺にとって宮田さんは、巨人時代の最大の恩人だね。