1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 “怪物”の80年代
1980年。巨人が迎えた開幕戦の先発マウンドに、江川卓が立っていた。高校時代から“怪物”と騒がれ、大騒動を経て巨人へ。プロ1年目は不本意な成績に終わり、伝説の伊東キャンプで
長嶋茂雄監督にあらためて鍛えられた。そして2年目。開幕投手の大役とともに、“怪物”の80年代が始まろうとしていた。
通算勝利は135勝だが、数字では測れない物語を持った投手だった。史上最速の球を投げたのは誰か、という話題になると必ず名前が挙がる。しかも、高校時代の江川卓だ。
作新学院高では栃木県大会で完全試合2を含むノーヒットノーラン9度、3年センバツの4試合で60奪三振。その球に打者のバットがかすっただけで客席がどよめき、本気で投げたら捕手が捕れないという噂もあった。法大では多少、力の配分を機にするようになり、すべての打者を快速球で牛耳るような投球はしなくなったが、ここぞという場面ではギアが上がった。通算47勝、当時最多の通算443奪三振。プロでの活躍を疑う者はいなかった。1977年秋のドラフトでは、あこがれの巨人ではなく、九州は福岡に本拠地を置くクラウンライターが1位指名。「九州は遠い」と拒否して米留学を選ぶ。この時点では、多くの人が次のドラフトで夢がかない、巨人に入ってほしいと願っていただろう。
翌78年11月21日。いわゆる“空白の1日”だ。ドラフト前日、野球協約のスキを突いて巨人と契約。当然だが、セ・リーグに選手登録は認められなかった。最終的には、そのドラフトで正式に1位で指名した阪神に入団した後、
小林繁とのトレードという形で巨人へ。この“江川事件”と呼ばれる一連の騒動で、完全に世間を敵に回すことになる。
プロ1年目。79年は巨人が開幕から5月いっぱいまでの一軍登録を自粛したこともあって9勝10敗。巨人に牙をむいて22勝を挙げた小林と比較すると分が悪いが、リーグ3位の防御率2.80をマークしている。そして80年。16勝を挙げて最多勝の初タイトルとなる最多勝、219奪三振もリーグ最多だ。8月16日には後楽園球場で初めて小林との“直接対決”が実現し、176球の熱投で完投勝利。「人生最大の勝負という気で投げた。ここで負けたら僕はずっと小林さんの下になってしまう」と、珍しく興奮気味に語っていた。
81年が圧巻だった。開幕投手こそライバルの
西本聖に譲ったが、「ようやく(ドラフトでの浪人時代の)1年間のブランクが戻った」と語るように速球のキレが増して20勝6敗、防御率2.29で最多勝、最優秀防御率。221奪三振も2年連続でリーグ最多という“投手3冠”で優勝の立役者となってMVPに。
日本ハムとの日本シリーズでは最後の打者を投飛に打ち取り、自らウイニングボールをつかんで胴上げ投手にもなっている。
右肩に抱えた爆弾
まだ逆風は吹いていた。記者投票による選考の沢村賞に選ばれたのは18勝を挙げた西本。さすがに物議をかもした。この件について特に語らなかったが、ちなみに現役引退まで西本を勝利数で下回ったことはない(84年のみ15勝でタイ)。これもまた、ある種の意地だったのではないだろうか。
主軸を目の覚めるようなストレートで抑えたと思えば、下位打線に思わぬ痛打を浴びることもあった。手抜きと言われることも多かったが、実際には1試合での力の配分を考えてのものだった。
「バッターはどうしても目が慣れる。逆にピッチャーの球は落ちていく。それが交わって接点を作ると勝てない。だから常に全力で投げるんじゃなく、下位打線では肩をためるんです」
だが、プロでのピークは長くなかった。83年も3年連続でリーグ最多奪三振、19勝も挙げたが、最多勝のタイトルは逃す。早くも右肩痛に苦しめられていた。84年になると100球を過ぎたあたりから崩れる試合が多くなり、“100球肩”とも言われる。ただ、勝ち星こそ減らしているが、負けも少ない。悪いなりに負けない投球をしようとしていたことが分かる。
<次回へ続く>
写真=BBM