今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 あすに生きる男
今回は『1964年3月30日号』。定価は40円だ。
東京オリンピックもあって150試合制のパはセに先立ち3月14日開幕。
阪急の
スペンサー、ウィンディ、東京のパリス、近鉄のチャックら、パは大物新外国人の入団が話題になった年だ。
南海にはメジャーで1407安打を放ち、鳴り物入り入団したローガンがいたが、開幕戦では快音なし。試合後、記者に何を聞かれても「トゥモロー(明日)」としか答えず、記者たちは勝手に、「あすに生きる男」とキャッチフレーズをつけた。
大きく足を上げるタイプだが、どうも日本投手のカーブとタイミングが合わない。それでも本人は、「30試合だけ黙って見ていてほしいんだ。ひととおり各投手と当たったら必ず打ち崩して見せる」と語っていた。
セ・リーグでは3人の子どもを持つ、子連れルーキー、
中日・
小川健太郎が話題となっていた。決め球は、ほぼ無回転の
ナックルボール。すさまじい変化をする魔球だったが、捕手も捕れず、困っていたらしい。
ただ、ご存じのとおり小川は新人でなく、出戻り。
福岡・明善高から54年東映に入団も55年限りで退団。その後、ノンプロでプレーし、立正佼成会時代、補強選手として2度都市対抗に出場し、プロ復帰となった。
「よくその年になってプロでやる気になったな、と言われますが、正直なところノンプロで選手をやっていくには、その月給だけでは自分の栄養すら補給できませんでした。食うためですよ」
ハングリーだ。
国鉄・
金田正一の連載「プロ野球なで斬り帳」では、こんな個所があった。
ライバルやけど、ワシは巨人が好きや。あの伝統あるユニフォームは、一生に一度は着てみたいユニフォームや。かなわんことやけれども。
書いていて思ったが、巨人絡みの話は、もしかしたら若い読者の方にはわかりにくくなっているかもしれない。
好き嫌いはともかく、いまの巨人とは違い、野球ファン、関係者にとって特別なチームだった。

マッシー村上、野球留学。左から田中、高橋、村上
今回の2枚目。
南海がサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下のフレスノに
村上雅則、
高橋博、
田中達彦を派遣した。契約は村上が3カ月、高橋、田中が1年だった。
村上については、すでに
鶴岡一人監督の評価も高く、終盤に秘密兵器と考えていたのだろう。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM