208センチの長身左腕
平成初期、プロ野球の脅威はサッカーよりも、大相撲だった。
あのころ、相撲界は若貴フィーバーで空前の盛り上がりを見せていた。昭和の大横綱・千代の富士から、貴花田と若花田の兄弟力士の時代へ。特に甘いマスクでまだ10代の貴花田は、近年の暴走ぶりからは信じられないが、2018年で言うフィギュアスケートの羽生結弦以上の人気があった。さらにトップアイドルの宮沢りえと突然の婚約発表、強引にたとえると明日いきなり羽生君と広瀬すずが電撃婚約するようなインパクトである。ちなみに91年春場所12日目の貴花田vs.小錦戦のテレビ瞬間視聴率は「52.2パーセント」という凄まじい数字を記録している。
「肩に小錦が乗っかっている」
そして、ニッポン列島が空前の大相撲人気に湧いた90年代、平成球史に残るそんな“迷言”を残した外国人投手がいた。
ロッテから巨人へ移籍した208センチの長身左腕
エリック・ヒルマンである。メジャーでは4勝14敗、防御率4.85とパッとしない成績だが、20代の終わりに日本行きを決断。95年、3A時代の恩師でもあるロッテの新監督ボビー・バレンタインの下、いきなり12勝を挙げる活躍を見せ、
伊良部秀輝や
小宮山悟と三本柱を形成しチーム2位躍進の原動力となる。
来日時は
フリオ・フランコや
ピート・インカビリアといった、大物メジャー・リーガーの陰に隠れがちの無名のサウスポーが9年連続Bクラスだったチームの救世主に。2年目の96年シーズンもヒルマンはエース級の働きで、週刊ベースボールの『96'ぜっこーちょーFACE』にも登場。6月3日現在、11試合の先発で7完投。4月17日
オリックス戦から、5月12日オリックス戦まで5連続完投勝利も記録した。
田村藤夫捕手は「本当に受けにくいよ。真っすぐでもシュート回転させたり、スライドさせたりできるんだから」とヒルマンの微妙に変化する球筋を絶賛。さらに94年から3年連続リーグMVP受賞と敵なしの快進撃を続けていたオリックス時代の
イチローに対しても、1試合で2本もバットをへし折ってみせた。
夏には週刊ベースボールの独占インタビューで「沢村賞を手にして、僕の人生のハイライトとしたい!」と力強く宣言。「僕はどんなプレッシャーも感じていないよ。日本語のメディアを理解できないし、テレビもよく分からないから、自分のことをキッチリやるだけ。メディアは書きたいことを書き、テレビは言いたいことを言えばいい。言葉を理解できないから、それをいちいち気に病むこともない」なんて余裕を見せるロッテの新エース・ヒルマン。96年は29試合で14勝9敗、防御率2.40の好成績。わずか0.002差で同僚の伊良部に防御率のタイトルは譲ったが、両リーグ最多の213.1回と投げまくった。
ロッテから巨人へ移籍して変わった運命

ロッテでは先発としてフル回転したが……
しかし、96年オフに巨人へ金銭トレードで移籍したことで運命は変わる。年俸2億5000万円、総額5億円の2年契約で、11月13日の入団発表の席には長嶋茂雄監督も同席。当初、背番号は15勝の願いを込めて105番だったが、最終的に42番で登録。ミスターはご機嫌に「15勝を目標と言ってますが、そのくらい勝ってくれればオンの字。強力ピッチングスタッフ? ムフフ」なんつって
斎藤雅樹、
バルビーノ・ガルベス、
槙原寛己、
桑田真澄との強力先発ローテに期待を膨らませた。
しかし、97年開幕からその計算は狂う。なにせ左のエースを期待した助っ人が、肩の違和感でまったく戦力にならなかったのである。予定されていたイースタン・リーグでの登板もドタキャン。
堀内恒夫投手コーチは「上で使えん投手のことまで、オレの頭が回るかよ」と吐き捨てた。週べ97年5月5日号掲載のヒルマン記事には「ナゲタクナイ病? 左肩の違和感が続くヒルマン。一軍のマウンドに戻るつもりはあるのか……」の見出しが確認できる。
4月30日のイースタン・ロッテ戦で先発するが3回4安打2失点、最速136キロと迫力はいまひとつ。「思い切って腕を振れない。まだかばう感じ。高校生にも打たれるよ」と自嘲気味につぶやくヒルマン。ロッテ時代とは比較にならない多くの報道陣に追い回され、この時期からコメントもヤケクソ気味になってくる。5月7日の
ヤクルト戦でようやく一軍初登板も、5回8安打3四死球2失点とフラフラの投球。続く14日の
広島戦では7球投げただけで、「肩の違和感」を理由に降板。結局、これがシーズンラスト登板になってしまい、あとはひたすらジャイアンツ球場でリハビリの日々を過ごす。
二軍の若手から「昼に帰る男だからヒルマンか」となんだかよく分からない陰口を叩かれるも、本人は呑気に“ヒルマン”とカタカナでサインするファンサービスぶり。私生活では前妻と離婚して、六本木でショーダンサーをしていた女性と再婚。
日本ハム戦を観戦に行き、東京ドームのスタンドで新妻とアイスクリームを食べながらキスを繰り返していた……という現代ならSNSで即炎上行動が当時の週刊誌では報じられた。
あの“迷言”を吐き単身帰京
再起を期した翌98年、春季キャンプのフリー打撃登板後に「小錦が肩に乗っているような感じ」と再び違和感を訴え、あの“迷言”を吐き単身帰京。週刊現代の独占インタビューに「テレビでジャイアンツ戦を見ながらひとりで泣いた」なんて唐突にチーム愛をアピールし、仮病疑惑を全力で否定(実際に左肩の関節唇断裂で手術をしている)。ただの情緒不安定なアラサー男に思えなくもないが、結局、巨人2年目は1試合も投げることなく5月30日に解雇を通告され、「肩が治ったらジャイアンツの入団テストを受けたい」と言い残し、6月2日にはなぜか日光東照宮へ観光旅行に出掛けている。
帰国前に日光で週刊ポスト取材陣に直撃されたヒルマンは最後の独占インタビューで、こんなセリフを残している。実はあの平成球史に残る迷言には続きがあったのだ。
「そりゃ痛いよ。まだ、左肩の上に小錦が乗っかっている。いや、今は曙くらいかな(笑)」
文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM