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明大・森下は今春、秋とエース番号の「11」を着けたが、来春からは主将ナンバーである「10」を背負う
2018年も、あと1カ月余りである。年が明けてすぐ、プロ・アマ球界全体が悲しみに包まれたのは
星野仙一氏の急逝(1月4日)だった。各方面で絶大な影響力があったが、10月25日ドラフト会議では、倉敷商高の後輩である右腕・
引地秀一郎が3位指名で
楽天入り。球団副会長だった同氏のチームから指名を受けたのも、深い縁を感じたものだ。
星野氏の逝去が公となった1月6日は、母校・明大の練習始動日だった。深く悲しんでいたのは野球部関係者だけではなく、グラウンドも寂しげであったのを思い出す。
明大にとって今春のリーグ戦開幕カード(4月21日、対東大1回戦)の試合前、星野氏の哀悼セレモニーが行われた。この試合、明大の先発投手で勝利投手となったのが本格派右腕・
森下暢仁(3年・大分商高)だった。
「星野さんは偉大。エースとしても大先輩です。気持ちの強さを見習ってもっと、気迫とかを出してやりたいと思う」
マウンド上では闘志を前面に押し出す森下だが、普段は物静かで、メディア対応においても決して口数が多いほうではない。明大・善波達也監督は2019年の新チームの主将に、森下を任命。言葉よりも、行動で引っ張っていくタイプに映る。星野氏も投手ながらも、大学時代に努めた大役。明大における「投手兼主将」は2016年の
柳裕也(現
中日)以来だ。
森下は高校時代から最速148キロを計測するドラフト候補だった。東海大相模高・
小笠原慎之介(現中日)、県岐阜商高・
高橋純平(現
ソフトバンク)とともに、侍ジャパンU-18代表でプレー。プロ志望届を提出していれば、「上位指名は間違いない」と言われていたが、同書類の提出を回避している。
大学進学の決め手となったのは、U-18代表が戦った侍ジャパン大学代表との壮行試合(甲子園)だった。当時明大3年の柳裕也の迫力ある投球を見た森下は「大学であれだけ、成長できるんだ!!」と、同じ九州(柳は宮崎県出身)の先輩を慕って明大を志望。高卒ではなく、4年後の即戦力でのドラフト1位指名を目指そうと、進路を大学に固めたのだ。
森下は明大に入学し、3学年上の柳とは1年間、同じ釜の飯を食べた。負担が大きい投手ながら、柳はキャプテンとしてチームをけん引し、2016年は春秋連覇の原動力となった。明大は同秋以降、リーグ優勝から遠ざかっている。来春のV奪回へ向け、柳の背中を見てきた森下にチームの大黒柱が託されたのだ。
今春から明大のエース番号「11」を背負った森下だが、年間7勝(春3勝2敗、秋4勝3敗、リーグ戦通算9勝)と、周囲の期待からすれば、本来の力を出し切れなかったと言っていい。来春からは東京六大学のキャプテンナンバーである「10」を着ける。今夏は侍ジャパン大学代表でプレー。日米大学選手権(米国)、ハーレームベースボールウイーク(オランダ)と続いた約1カ月に及ぶ海外遠征で、日体大で主将を務める右腕・
松本航(
西武ドラフト1位)から、チームリーダーとしての振る舞いを学んだ。
大先輩の星野氏、そして、柳と続いてきた「メイジ魂」を継ぐ森下は19年、主将としてどのようなカラーを打ち出すのか――。151キロ右腕の個性に、興味は尽きないところだ。
文=岡本朋祐 写真=菅原淳