『ベースボールマガジン』で連載している「現役を引退してから別のお仕事で頑張っている元プロ野球選手」のもとをパンチさんが訪ね、お話をうかがう連載です。今回はヤクルト、西武、日本ハムで活躍し、現在は東京・下北沢で体に優しいヘルシーメニューのカフェ、ナチュラルキッチン「イニング+」を営む米野智人さんを訪ねました。 チャンスをもらいながらつかめなかった正捕手の座
現役生活17年。「長いといえば長いけれども、今となってはあっという間だった」と振り返る。
その中で一番の思い出はといえば、西武時代の2012年4月26日、
ソフトバンク戦。2点のビハインドで迎えた9回表二死満塁、守護神
ファルケンボーグから放った逆転満塁本塁打だという。
「僕の思い出、というより今も皆さんの記憶に残していただいているので……」と米野さん。まずはその現役時代を、パンチさんとともに振り返る。
パンチ 首位打者を獲るとか名球会に入るとか、そんな成績や記録もカッコいいかもしれないけど、ファンの記憶に強烈に残る一発を打てたのは、最高の思い出じゃない?
米野 その2年前、ものすごく野球に悩んでいた時期があったんです。その後、ヤクルトから西武にトレードで行ったんですよね。

西武時代の2012年4月26日のソフトバンク戦で放った逆転満塁アーチが最も印象に残っているという
パンチ 何に悩んでいたの?
米野 うまくいかなかったです。もちろん結果も出ないし、ちょっとケガをしては、すぐ戦列を離れてしまう。西武にはキャッチャーとしてトレードされましたが、行き詰まって、2年目の秋季キャンプで外野に転向しました。それで翌年、そのホームランも打てたので……。
パンチ キャッチャーから外野に行くと、やっぱりラク?
米野 いやあ、ラクじゃないですね。確かに試合前、やることの量はキャッチャーのほうが圧倒的に多いんです。相手チームのいろいろなデータを見て、一番バッターから順に味方ピッチャーとの対戦をシミュレーションするとか。外野手は相手ピッチャーを打つことに集中するので、そこは違いましたね。
パンチ これ、キャッチャーやっていた人みんなに聞いているんだけど、生まれ変わったらキャッチャーやる?
米野 やらないです(笑)。本当にいろいろなことを見なければいけないし、夏の暑い中も防具一式付けなければならないし(笑)。でも、僕はキャッチャーでなければプロに入れなかったと思うので、キャッチャーはやっていてよかったです。
パンチ 逆に残念な思い出は?
米野 古田(
古田敦也)さんが捕手兼任監督になった2006年、かなりチャンスをいただいたのですが、そのチャンスを生かせなかったことは、しばらく後悔していました。

古田敦也の次世代の捕手として期待されたヤクルト時代(左は石川雅規投手)
パンチ そうだね。レギュラーになる選手は、そういうところでプッとつかむんだよなあ。誰かがケガして、「おまえ、行ってみろ」って言われて打席に立ったときに、カーンと打つとか。そのつかめる、つかめないはなんだったと思う?
米野 単純に、自分の弱さと実力不足だったと思いますね。ミスをしたとき、「次にミスをしたら、もう試合に出られなくなるな」という強迫観念を強く持ちまして。その中で野球をしていたので、どんどん、どんどん自信を失っていきました。
パンチ 例えばどんなミス?
米野 スローイングミスも多かったし、あとは自分がマスクをかぶっている中、なかなかチームが勝てなくて責任を感じ、自信のない状態のまま試合に出ていました。
パンチ 古田のすぐあとの正捕手を任されたわけだよね。比べてしまう部分もあったのかな。
米野 まだ古田さんにはすべての面において負けていたと思うんです。だけど後々のことも考えて、古田さんはキャッチャーを育てるつもりだった。そこで僕を気に留めて、期待してチャンスをくださった。ミスをしても使っていただいていたのに、そこでしっかり正捕手の座をつかめなかったのは、本当にもったいなかったと思います。
現役最後にもう一度捕手で勝負したかった
パンチ 西武から日本ハムに移った経緯は?
米野 15年に西武から戦力外通告を受けたんです。それでもまだできる、まだやりたいという思いがあって、他球団のオファーを待ちました。そこで日本ハムから、「選手兼バッテリーコーチ補佐」というお話をいただいたんです。僕としては選手一本でやりたかったというのが本心でしたが、キャッチャーに戻れるということだったので、その条件で入団しました。
パンチ もう一度、キャッチャーをやりたかったんだ。
米野 西武では外野登録になったあと、外野以外にファースト、サードもやりましたし、代打もキャッチャーも、本当にオールラウンドでやって終わっていたので。最後はもう一度、キャッチャーで勝負してみたいという気持ちがありましたね。
パンチ 一度キャッチャーを離れて、また戻ったときは新鮮だった?
米野 新鮮は新鮮でしたね。ただ、外野だとスタメンで出ていても7回、8回まで打球が飛んでこないことがあるんです。キャッチャーは常にボールに触っていますよね。5、6年離れていて、その差が「大丈夫かな」という不安はありました。
パンチ 逆に何か新しい発見もあったんじゃない?
米野 外野のほうが、客観的に広い視野からバッターを見られたんです。こういう変化球だったら、こっちに飛んでくるなとか、こっちには飛んでこなさそうなスイングだな、とか。キャッチャーに戻っても、その経験を生かしてバッターをもっと客観的に見るようにしようと思いました。
パンチ 野村(
野村克也)さんが「生涯一捕手」とおっしゃっていて、それはそれですごいと思うんだけど、せっかくの野球人生。いくつものポジションを守ったのも財産だったと僕は思うね。
米野 最初はイヤでしたけど、僕も今はよかったと思っています。実際、途中から内野とか他のポジションを守るのも、楽しくなってきましたしね。
パンチ 将来、子どもたちに教えるような機会があったら、きっと役に立つよ。
米野 はい、いつか子どもたちに教えてみたいなという気持ちもありますので。
パンチ 現役引退は、自分から? それとも球団から?
米野 自分からです。キャッチャーに戻って1年やってみましたが、自分の中で選手としてはいい感触がなかったので、もう辞めようと思いました。
パンチ 日本ハムに移籍して「キャッチャー一本で」と腹をくくってやったにもかかわらず、「いい感触がなかった」とは?
米野 もともとコーチ兼任の条件として、二軍にいるとき試合出場できるのは鎌ケ谷のホームゲームだけだったんです。チームが遠征に出ている間は鎌ケ谷に残って、残留組のピッチャーの球を受け、それをピッチングコーチに報告するという。それでなくても試合数が少ない上に、自分の力も試合に出られるレベルにはなかった。肩が強くてプロに来たのに、それが明らかに衰えたばかりか、1試合出ただけでヒジがかなり張るようになってしまいまして。
パンチ 体の衰えが、顕著になってきたんだね。
米野 長年やってきたせいか、体がちょっとねじれてきたように感じましたね。
パンチ そうなると、イメージもちょっとずつずれてくるでしょう。
米野 コントロールにもバラつきが出てきましたね。それでもうキツイかな、と思いました。ボールに一番接する、責任あるポジション。投げることも多く、結構重労働です。これはもうもたないかな、と思いました。
<「2」へ続く>
●米野智人(よねの・ともひと)
1982年1月21日生まれ、北海道出身。北照高からドラフト3位で2000年にヤクルト入団。「ポスト古田敦也」候補の捕手として、古田兼任監督1年目の06年シーズンに116試合出場した。10年途中に移籍した西武では捕手だけでなく、外野手、内野手としても活躍。16年に日本ハムに移籍し、捕手兼バッテリーコーチ補佐を務め、16年限りで引退。通算成績は300試合、打率.206、13本塁打、64打点。現在は都内でナチュラルキッチン「イニング+」(東京都世田谷区代田5-34-21 ハイランド202)を経営している
●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年
オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。
構成=前田恵 写真=山口高明