印象に残る試合は伝説の「10.8」
1月15日、東京・千代田区の野球殿堂博物館の殿堂ホールにおいて、2019年野球殿堂入りの通知式が行われ、競技者表彰で立浪和義氏(元
中日)、エキスパート表彰では
権藤博氏(元中日、横浜監督)がそれぞれ殿堂入りを果たした。また、特別表彰では第5代高野連会長の脇村春夫氏が顕彰された。
プレーヤー表彰は、野球報道15年以上の投票委員約300人による有効投票のうち75パーセントを占めれば、殿堂入り。今年は371票の有効投票があり、開票の結果、立浪氏が287票(77.4パーセント)を獲得し、15年に候補となって以来、5年目での顕彰となった(次点は
田淵幸一氏=元
阪神ほかの86票)。
立浪氏はPL学園高時代の1987年、キャプテンとしてチームを春夏連覇へと導いた。同年秋のドラフトで中日に1位指名されると、1年目の開幕から二番・ショートでスタメン出場するなど110試合に出場、チームのリーグ優勝に貢献するとともに、高卒新人としては史上初のゴールデン・グラブ賞を獲得した。99年、2004年、06年のリーグ優勝にも貢献。07年には代打の切り札として活躍、日本一を経験した。
「光栄に思いますし、感謝を申し上げます。野球を通じてたくさんの方々に支えていただいたことすべてに感謝の気持ちでいっぱいです。これから野球界のため、子どもたちに野球の楽しさを知ってもらい、一人でも多くプロ野球を目指してもらうように頑張ってまいります」とスピーチした。
22年間にわたってプロでやってこられた理由としては「1年目から試合に出続けたこと」を挙げた。決して大きな体ではなかった。無我夢中でプレーしながら、プロのシーズンを戦い抜く厳しさを知り、3年目には初の打率3割をマーク。印象に残っている試合としては
巨人との同率最終決戦となった94年、伝説の「10.8」。自身は一塁へのヘッドスライディングで負傷退場した「緊迫感、緊張感がすごかった」と振り返った。歴代最多の427に関しては「プロ初打席も最終打席も二塁打。縁があるのかな。二塁打は福本さん(豊、元阪急)のように足が速過ぎても遅過ぎでもいけない」と笑った。そんな立浪氏の晴れ姿を1年前に他界した星野仙一氏が、殿堂ホールに掲げられたレリーフの中で優しく微笑みかけていた。
コンダクターとして登場したのはPL学園時代の恩師、中村順司氏(元監督)。「体は小さかったけど、負けん気は強かった」と当時の思い出を語った。
自身の苦い経験を指導者で生かした権藤氏

立浪氏(左)、権藤博氏
エキスパート表彰された権藤氏は、有効投票133のうち76.5パーセントにあたる102票を獲得。晴れて殿堂入りを果たした。
中日に入団した1961年に429回1/3を投げて35勝、防御率1.70と驚異的な成績を挙げて主要投手タイトルを総ナメ、翌年も30勝をマーク。エースとして大車輪の活躍を見せながら「権藤、権藤、雨、権藤」と言われるほど酷使された代償で、肩を壊して実働8シーズンに終わった。
その後、各球団の投手コーチを経て、98年には横浜の監督として38年ぶりのリーグ優勝、そして日本一へと導いた。大魔神・
佐々木主浩につなぐ中継ぎ陣にローテション制を導入、負担を軽減させたのは、自身の苦い経験からだった。
「佐賀県の鳥栖から田舎者が一旗揚げようと思ってプロの世界に入りました。61年に中日に入って2年間は一生懸命にやりましたが、その後は故障続きで本当に苦しいことばかりでした。そのあとコーチとして中日、近鉄で優勝、98年には横浜の監督を任されて、38年ぶりの優勝を決めることができました。私は選手に恵まれて、運が良かったと思っています。次点が続いていたので、そのうち入れるだろうなと思っていましたが、実際に入ってみて歴代のメンバーを見ると、すごいところに入ったと。今日の私の姿は一世一代の晴れ姿。ここだけは自分で自分をほめてやりたいです(笑)」
権藤氏のコンダクターとして登壇したのは、
杉下茂氏。のちに中日のエースナンバーとなる背番号20を権藤氏に継承、それはやがて星野仙一氏へと受け継がれていった。
「20番を中日の看板投手(の象徴)したのは権藤君です。私じゃないんです。私にとっての20番は20勝を目標とするためのもの。権藤君の場合は、20番を背負って、監督の命令のまま新人でありながら400イニングをほうったところが、名古屋のファンには印象に残ったと思います」
なお、特別表彰は、02年~08年にわたって第5代高野連会長を務めた脇村春夫氏が殿堂入り(コンダクターは田名部和裕・高野連理事)。激動の時代の中でプロ、アマの関係改善に尽力した氏は、「野球殿堂入りというのは私にとってまったくありえないこと。皆さん方の御支援で殿堂入りでき、大変ありがとうございました」と感謝の言葉を口にした。
写真=榎本郁也