昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 座頭市の始球式
今回は『1967年4月30日号』。定価は60円。
1967年4月、日本列島は長雨で湿っていた。
4月16日、開幕から8日が経ったが、雨にたたられ、巨人はまだ2試合しか消化できず、しかも連敗。
長嶋茂雄はいまだノーヒットだった。
ただ、打線は実力者ぞろい。本人たちも周囲も「いつか打つだろう」という雰囲気だったが、不安視されたのが、オープン戦からパッとしない投手陣だった。
前年限りで大洋コーチを辞めた
別所毅彦(当時解説者)は“逆ベロビーチ効果”だという。確かに、向こうの指導者から秘密兵器のように伝授されたチェンジアップがあまり効果を上げていないようだ。
別所の話はもっともではある。
「向こうの投手は力任せに投げてくる。バッターもそれに負けないために速球に的を絞っているから時々ゆるい球を投げると効果がある。ゆるい変化球主体の投手が使っても思ったように効果が上がらないのは当然。もともとストライクを取る球じゃないから見送られたら終わりさ」
ストレートなくして変化球はなしか。
大洋がメジャー通算227本塁打、元ドジャースのスチュアートと契約を交わしたことも話題になっていた。あの
三原脩監督が「ほんとうの話なんですかね。気がついてみたら夢だったなんてことはないでしょうね」と声を弾ませた超大物だ。
ドジャースとの契約がもつれ、知り合いを通じ、日本球界に売り込んだのはスチュアート自身だった。最初は南海と交渉するも2万5000ドルの条件が安すぎると決裂。そのあと東京と東映も動いたが、2球団のオーナーが知己のドジャースの
オマリー会長から「性格に問題がある」と聞き、撤退。最後、大洋が3万ドルで契約した。
なおスチュアートは大洋に「400打席以上の出場でホームラン30本以上なら2500ドル、90打点以上ならさらに1500ドル」と条件をつけたうえで、契約を結んだ。
初登板初完封となったのが、東映の
高橋善正だ。4月12日、後楽園での東京戦。しかも13回を1人で投げ抜き、被安打は2。鋭いシュートが武器のサイドハンド投手だった。ヒジ痛を抱え、シュートの投げすぎのように言われることもあったが、本人は、
「ヒジを痛めてから、そこが痛くないように投げたのがシュート」
と話している。
14日には、この年の東京球場開場となる東京─西鉄戦があったが、セレモニーが豪華だ。100発の仕掛け花火のあと、消防庁、米陸軍の合同演奏行進。両監督への花束贈呈は女優の江波杏子、滝瑛子が行い、始球式は座頭市姿の勝新太郎。片肌脱いで球を投じた。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM