日本のプロ野球に外国人登録枠が採用されたのは1952年から。だが、それ以前の黎明期から日系二世などの外国人はプレーしていた。時代とともに外国人枠、外国人選手の出身国、日本球界を取り巻く環境も変わってきた。それぞれの時代の中で外国人選手はどのような役割を果たしてきたのか。助っ人のトレンドを年代別に考察してみよう。 西の名門球団の大投手
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外国人投手初の沢村賞に輝いたバッキー
「野武士軍団」で1950年代後半に黄金時代を築いた西鉄は、62年限りで主力の
豊田泰光を国鉄にトレード。63年は
中西太兼任監督をロイ、パーマ、ウィルソンの外国人トリオがもり立て、南海と最大14.5あったゲーム差を引っくり返して逆転優勝する。これが福岡のライオンズ最後の栄冠だった。この時点で外国人選手枠は「3」だったが、66年から「2」になる。
この時代には両リーグの西の名門球団に、アメリカ出身の大投手たちがいた。南海の
スタンカと、
阪神のバッキーだ。
スタンカは64年に26勝を挙げ、外国人として戦後初のMVPに。日本シリーズでも第6、7戦で連続完封勝利などMVPに輝いた。その対戦相手でもあった阪神のバッキーは29勝を挙げ、MVPこそ逃したものの、外国人として史上初の沢村賞に選出された。両者ともに奇しくも、64年がキャリアハイのベストシーズンだったということになる。
同年の日本シリーズは1回目の東京オリンピック直前の時期に慌ただしく開催されたが、東京に世界中からスポーツ選手を招いているときに、大阪ではアメリカ人投手同士の日本シリーズが開催されていたのだ。スタンカは現役最終年の66年に1年間だけ大洋、バッキーは同じく69年だけ近鉄に所属して引退。通算成績はどちらもキリの良い数字である100勝(スタンカ72敗、バッキー80敗)だった。
本場仕込みの「情報野球」
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選手としての実働は3年ながら、その後コーチとして野村監督に多大な影響を与えたブレイザー
60年代中盤になると阪急に
スペンサー、南海にブレイザーが入団。本場仕込みの「情報野球」を伝え、後の阪急黄金時代、野村ID野球、
古葉竹識監督による強豪カープ形成などに多大な影響を与えた。
スペンサーは65年、1試合のうちに単打、二塁打、三塁打、本塁打を記録したが試合の後に誰からも触れられず、記者たちに「なぜサイクルヒットについて質問がないんだ」と逆に聞いて、初めて日本にも「サイクルヒット」という概念が伝わった。また、スペンサーは投手のクセを見破る能力に秀でており、メモを取って投手の配球の傾向なども分析していた。それまで、日本球界でそのようなことをする選手はいなかったのだ。
ブレイザーは併殺技術やバントなどで本場仕込みの質の高いプレーを披露し、69年に引退すると選手兼任監督に就任した
野村克也に頼まれてヘッドコーチに就任。根性論や運まかせが多かった従来の日本野球において、勝つための確率が高い野球を考える「シンキング・ベースボール」を推進し、「ID野球」の原点となった。
日本野球が組織的な「近代野球」へと発展していく時代の潮目に、スペンサーとブレイザーが大きく貢献した事実は見逃せない。
その一方で68年、東京オリオンズはヘクター・ロペスという右打者と契約するつもりだったが、キャンプ地に現れたのは左打者のアルト・ロペス。人違いでも入団し、23本塁打と活躍したというおおらかな時代だった。今なら考えられないことだ。
60年代後半のセ・リーグは「
巨人V9」の前半。巨人を倒すため阪神は
カークランド、サン
ケイは
ジャクソンに
ロバーツ、大洋はスチュアートなどと契約して戦力強化も、ON砲を中心とする「国産主義」の巨人に敗れた。
写真=BBM