プロ野球のテレビ中継が黄金期を迎えた1980年代。ブラウン管に映し出されていたのは、もちろんプロ野球の試合だった。お茶の間で、あるいは球場で、手に汗にぎって見守った名勝負の数々を再現する。 身売りの阪急、注目度の低い近鉄

9回表、必死の激走で決勝のホームを踏んだ鈴木を抱き締める中西コーチ
1988年は激動の1年だった。東京ドームが開場、プロ野球で初めてドーム球場で公式戦が行われたかと思えば、9月には名門の南海がダイエーへの球団売却を発表。球団名が変わるのは80年代に入って初めてのことだった。さらには10月19日、同じく名門の阪急がオリエント・リース(現在の
オリックス)への球団売却を発表。いよいよ昭和が終わりを告げようとしていたとき、プロ野球の歴史も大きな転換点を迎えることを誰もが予感した、その10月19日のことだった。
グラウンドでも、大きなドラマが幕を開けようとしていた。だが、そのダブルヘッダーが球史に残る名勝負になることを予感したファンは少なかったのではないか。舞台は川崎球場。「テレビじゃ見れない川崎球場」という自虐的なキャッチコピーが躍ったのは90年代のことだが、アクセスの悪さも手伝って、80年代から「閑古鳥の巣」などと揶揄されていた、閑散としている光景のほうが見慣れた球場だ。
その川崎球場に本拠地を置く
ロッテも最下位が確定。このダブルヘッダーに近鉄が連勝すれば優勝するのだが、中継はNHKラジオのみと、“扱いが悪い”試合だった。ところが、だ。フタを開けてみれば、川崎球場には大観衆が押し寄せる。滅多にない事態に球場も大混乱。それでもまだ、このダブルヘッダーは近鉄の優勝が懸かっただけのものだっただろう。伝統の一戦といえば
巨人と
阪神であり、パ・リーグの盟主といえば
西武だ。近鉄の優勝に関心があるファンも少なかっただろう。だが、近鉄ナインの姿は、他チームのファンどころか、日本中をも巻き込んでいくことになる。
ダブルヘッダー第1試合は、規定では9回を終わって同点の場合は打ち切り。近鉄が優勝するためには、まず第1試合に勝たなければならなかった。1回裏、まずロッテが
愛甲猛の17号2ランで先制。一方の近鉄打線は連戦の疲労もあって元気がなく、4回表まで三者凡退を続ける。5回表二死から六番の
鈴木貴久が近鉄の初安打となる20号ソロ。それでも、打線は目を覚まさない。6回表、7回表も三者凡退。7回裏にはロッテの伏兵・
佐藤健一の適時二塁打で再び突き放される。だが、勝利の女神は近鉄を見放さなかった。
梨田が現役最後の打席で希望をつなぐ
8回表一死から鈴木の右安打、続く代打の
加藤正樹が四球。そこから代打の
村上隆行が二塁打で2点を返して同点に。二死後、
大石第二朗、
新井宏昌が連続四球でチャンスが続くも、
ブライアントが空振り三振。同点のまま迎えた9回表も一死後、
淡口憲治が二塁打、続く鈴木も右安打を放つも、代走の
佐藤純一が三本間で挟殺されて二死二塁に。
代打に送られたのは結果的に現役最後の打席となる
梨田昌孝だった。詰まりながらも中前へ落とすと、鈴木が二塁から本塁へ突入。タイミングはアウトだったが、必死に回り込んでセーブとなり、ついに近鉄が逆転に成功する。その裏はエースの
阿波野秀幸が苦しみながらも切り抜け、第2試合に優勝の夢をつないだ。
1988年10月19日
ロッテ-近鉄25回戦(川崎)
(ダブルヘッダー第1試合)
近鉄 000 010 021 4
ロッテ 200 000 100 3
[勝]吉井(10勝2敗24S)
[敗]牛島(1勝6敗25S)
[S]阿波野(14勝12敗1S)
[本塁打]
(近鉄)鈴木20号
(ロッテ)愛甲17号
写真=BBM