プロ野球のテレビ中継が黄金期を迎えた1980年代。ブラウン管に映し出されていたのは、もちろんプロ野球の試合だった。お茶の間で、あるいは球場で、手に汗にぎって見守った名勝負の数々を再現する。 85年4月14日の日曜日

トミー・ジョン手術からの復活登板で力投する村田
近年こそスポーツ科学、スポーツ医学が発達し、合理的なトレーニングが追求されるようになった野球界だが、1980年代にまでさかのぼると、長時間練習が励行され、水を飲むな、とにかく投手は肩を冷やすな、などが“常識”だった。
そのうちの1つが、「投手は肩、ヒジにメスを入れたら終わり」というもの。その“常識”に挑み、そして覆したのが“マサカリ投法”で知られた
ロッテの
村田兆治だ。83年に渡米し、現在では一般的なトミー・ジョン手術を受け、リハビリを経て復帰。ヒジを痛めた経緯や、手術の詳しいことに関しては、『プロ野球1980年代の名選手』で村田を前後編で紹介した際に触れた。
ここでは、村田が復帰後、初勝利を挙げた85年4月14日の
西武戦(川崎)を振り返ってみたい。繰り返しになるが、手術を執刀したフランク・ジョーブ博士から「今度、腱が切れたら、もう野球はできない。絶対100球以上は投げてはいけない」と言われての先発登板だった。
村田といえば、ダイナミックな“マサカリ投法”からの剛速球とフォークというイメージだが、この日は以前の球威が戻っておらず、さすがにイメージとは異なる投球内容となったのも無理はあるまい。ナチュラルか、あるいは意識してのものかは分からないが、スライダーやシンカー系、カーブといった変化球を多投した粘りの投球で黄金時代の西武打線を翻弄していく。
一方の西武も、この日がシーズン初登板となる
松沼雅之が一歩も譲らず。ともに毎回のように走者を許すも、粘り強い投球を続けた。試合の前半は両チームゼロ行進。村田の執念に応えたいロッテ打線だったが、1回裏は
横田真之が内野安打で出塁も盗塁に失敗、2回裏には
山本功児の二塁打に続いて
有藤道世が四球を選んだが、二死二、三塁から“愛妻”
袴田英利が三振。3回裏から5回裏まで3イニング連続で三者凡退と、なかなか均衡を破れなかった。
落合が2打席連続2ランで援護
そして6回裏、一死から一番の
庄司智久が左安打で出塁すると、横田の犠打で二進、続くリーが右中間へライナーを放つと、右翼の
田尾安志が落球(記録は安打)して1点を先制。そして四番の
落合博満が2ラン本塁打を放って、ようやく力投の村田への援護が始まる。
7回裏にも先頭の有藤が二塁打を放ち、庄司の適時打で1点を追加。だが、続く8回表、すでに「右ヒジの感覚がなくなっていた」という村田は4四球を与え、
片平晋作に適時打を浴びるなど2点を失ってしまう。しかし、その裏には落合に2打席連続2ランが飛び出し、追い上げる西武を突き放した。
稲尾和久監督の理解や自身の先発完投へのこだわりもあって、ジョーブ博士の「1試合100球まで」という制限は、とっくに超えていた。そして155球目はウイニングショットのフォーク。スティーブを二ゴロに打ち取り、82年5月7日の
日本ハム戦(後楽園)以来、1073日ぶりの勝ち星を挙げた。
この試合こそ、明らかなストレートは30球、フォークも10球ほどだったが、村田は徐々に本領を発揮していく。“サンデー兆治”の快進撃が始まった。
1985年4月14日
ロッテ-西武2回戦(川崎)
西武 000 000 020 2
ロッテ 000 003 12X 6
[勝]村田(1勝0敗0S)
[敗]松沼雅(0勝1敗0S)
[本塁打]
(ロッテ)落合3号、4号
写真=BBM