いよいよ第101回大会を迎える夏の高校野球。1915年、つまり大正4年に始まり、昭和、平成という時代を経て、この夏が令和最初の大会でもある。昨夏、平成最後の大会となった100回までの長い歴史の中で繰り広げられた名勝負の数々を、あらためて振り返ってみる。 2回裏に衝撃の一発

池田・水野から先制2ランを放ったPL学園・桑田
1983年の夏、第65回大会の第12日、第1試合の準々決勝で、“事実上の決勝戦”と言われた池田と中京が激突し、エースの
水野雄仁が投手戦を制して池田を勝利に導いたことは紹介した。池田は残すところ、準決勝と決勝の2試合のみ。準決勝の対戦相手は、池田の快進撃が始まる前、82年センバツの覇者だったPL学園だったが、主砲は1年生であり、エースも1年生、しかも体躯に恵まれているわけではない。
そんな1年生エースを、準々決勝でも底力を見せた池田の“やまびこ打線”が打ち崩し、3季連続の頂点へと駆け上がっていく、そう思ったファンは少なくなかっただろう。PL学園は2回戦で中津工に完勝したものの、準々決勝では高知商との打撃戦を1点差で制しての辛勝で、危なげなく勝ち進んできたとは言い切れなかった。
一方の池田は、失点は3回戦で
広島商に奪われた3点が最多。力の差は歴然としているように見えた。PL学園にも、同様の認識はあったようで、当の1年生エースも、池田に「1イニング1点ずつで9点までは取られてもいい」と思っていたという。その名は
桑田真澄。この1年生が、甲子園に波乱を巻き起こすことになる。
1回表は二死から桑田が連打を浴びるも後続を断ち、どうにか無失点。その裏は水野が三者凡退に抑え、下馬評どおりの展開となる。続く2回表は1四球のみ。抑えたといっても下位打線であり、その裏は水野が1四球を挟んで2三振で、早くも二死。そこから水野は適時二塁打を許し、1点を先制されたが、それでも池田の優位は変わらないと思ったファンは多かったのではないか。そして、打席に入ったのは八番の桑田だった。ところが、桑田の打球は左翼席へと吸い込まれていく。
投げては桑田が完封
この1年生エースが放った2ランは、甲子園の歴史を動かした一発だったのかもしれない。続く九番の住田弘行も2者連続となるソロ本塁打を放ち、PL学園は早くも4点をリード。3回裏、4回裏、そして7回裏にも1点ずつを追加して池田を圧倒する。
エースの水野は、もう1人の1年生で四番打者の
清原和博から全4打席で三振を奪って意地を見せたが、自慢の“やまびこ打線”は桑田の前に沈黙。6回表には先頭から2連打とチャンスを作るも併殺に終わり、これが最後の見せ場となった。
7回表からは桑田が3イニング連続で三者凡退に斬って取り、PL学園が完勝。その勢いのまま、初めて夏の頂点に立った。
“やまびこ打線”から“KKコンビ”へ。高校野球の勢力図が変わった一戦だった。
1983年(昭和57年)
第65回大会・準決勝
第13日 第1試合
池田 000 000 000 0
PL学園 041 100 10X 7
[勝]桑田
[敗]水野
[本塁打]
(PL学園)桑田、住田、小島
写真=BBM