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夏の甲子園名勝負

真夏の夜に繰り広げられた甲子園“史上最高試合”/夏の甲子園名勝負

 

いよいよ第101回大会を迎える夏の高校野球。1915年、つまり大正4年に始まり、昭和、平成という時代を経て、この夏が令和最初の大会でもある。昨夏、平成最後の大会となった100回までの長い歴史の中で繰り広げられた名勝負の数々を、あらためて振り返ってみる。

試合は延長、そしてナイターに


延長18回裏、箕島の二走・辻内がホームを踏み、熱戦にピリオドを打った


 今をさかのぼること40年前、1979年の夏。第9日、第4試合は、公立校として初の春夏連覇を狙う箕島と、まだ春夏を合わせても6度目の甲子園出場だった星稜との3回戦。観衆は3万4000人だったというから、事前の関心度は、それほど高かったとはいえないだろう。

 下馬評も箕島が優位という声が圧倒的。石井毅(のち西武)、嶋田宗彦(のち阪神)のバッテリーに加え、この年の春、センバツ決勝で浪商の牛島和彦(のち中日ほか)からサイクル安打を達成した北野敏史ら、甲子園の経験者を5人も擁するなど、実績でも箕島が圧倒していた。だが、この一戦こそ、40年を経た今も「史上最高」と言われる名勝負だ。

 試合が始まったのは16時6分だった。3回までは両チームゼロ行進。4回表に星稜が一死から3連打、その3本目は五番でエースでもある堅田外司昭による適時打となって1点を先制すると、その裏には箕島も一死から六番の森川康弘が適時打を放って同点とした。箕島の石井、星稜の堅田は、ともにたびたび走者を背負うも、粘り強い投球を続ける。そして、そのまま試合は延長に突入。同時に、甲子園球場の照明には灯がともされた。

 試合が動いたのは12回表だった。星稜は一死から六番で1年生の音重鎮(のち中日ほか)、続く主将の山下靖が四球を選び、ここで八番の石黒豊が二ゴロ。これが敵失を呼び込み、音が生還して勝ち越しに成功した。

 だが、その裏には二死から一番の嶋田が左翼ラッキーゾーンに飛び込む同点ソロ。土壇場で試合を振り出しに戻した箕島は14回裏、サヨナラのチャンスを作る。先頭打者の森川が右安打で出塁すると、犠打で二進、さらには三盗で一死三塁。このとき星稜の三塁を守っていたのが若狭徹(のち中日)だった。森川は若狭の隠し球でタッチアウト。後続も倒れ、ふたたび試合は膠着していく。

隠し球の汚名返上となる“生涯”初本塁打


 16回表、星稜は四球と内野安打、山下の適時打で1点を勝ち越すも、その裏には箕島も二死から、14回裏に隠し球の前に屈した森川が起死回生の同点ソロ。練習試合でも経験がなかった本塁打を絶体絶命のピンチで左翼席へと放り込んだ。

 この当時の規定では、延長18回を過ぎて引き分けであれば再試合となる。その18回に、劇的な展開が待ち受けていた。18回表、星稜は二死満塁と箕島を追い詰めるも、石井の257球目は島田のミットに収まる。この日16個目の奪三振でピンチを脱した箕島は、その裏、三振を挟む2四球で一死一、二塁に。そして堅田の208球目だった。五番の上野敬三(のち巨人)が左前に運び、二走の辻内崇志が生還。19時56分、3時間50分の激闘はサヨナラで幕を閉じた。

 勝った箕島は決勝も制して公立校で唯一となる春夏連覇を達成。敗れた星稜も、その後は甲子園の常連へと成長していった。


1979年(昭和54年)
第61回大会・3回戦
第9日 第4試合

星稜 000 100 000 001 000 100 3
箕島 000 100 000 001 000 101X 4
(延長18回サヨナラ)

[勝]石井
[敗]堅田
[本塁打]
(箕島)嶋田、森川

写真=BBM
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