プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 無敵の巨人に並んだ最強クリーンアップ
プロ野球の公式戦が始まったのが1936年。その後、戦禍があり、焦土からの復興があり、高度経済成長があり、バブル崩壊があり……。20世紀の激動を、プロ野球も一緒に歩んできた。すこし気が早いかもしれないが、21世紀となって、もうじき20年目に突入する。この機にあらためて、20世紀のプロ野球で躍動した男たちと、彼らが活躍した舞台を振り返ってみる。
最初に紹介するのは巨人の王貞治と長嶋茂雄、“ON”だ。現役だった彼らと同時代を過ごしたファンには説明不要のスーパースターであり、以下の内容は何度も何度も反復してきたことだろう。ただ、
ソフトバンクの会長と巨人の終身名誉監督が、どんな選手だったか、さらには、どんな監督だったかを知らない若者たちもいるに違いない。歴史上の人物に目を輝かせた少年期を顧みて、お付き合いいただけると幸甚だ。
かつて「巨人、大鵬、卵焼き」と言われた時代があった。みんな強い巨人と、強い横綱の大鵬と、おいしい卵焼きが大好きだった。もちろん、そうでない少数派もいただろうが、“みんな”と言ってしまえるほど、そんな雰囲気に包まれ、今日より明日はいい日になると信じていたような時代だった。まだテレビはモノクロが多く、チャンネルが外れた(リモコンになるという意味ではない)ので、お茶の間での最高権力者が簡単にテレビを支配することができた。そんなテレビで流れていたもののひとつがプロ野球の中継であり、強い巨人だった。その巨人の中心で数々の劇的アーチを描いていたのが王と長嶋によるクリーンアップ、“ON砲”だった。
先輩は長嶋だ。プロ野球の幕が開けた1936年に生まれたことも運命を感じさせる。立大では東京六大学リーグのスーパースター。まだプロ野球よりも東京六大学のほうが人気もステータスも上だった時代だ。長嶋が巨人へ入団したのが58年で、背番号は3。六大学の熱狂は、そのままプロ野球の人気につながっていく。
その翌59年に入団したのが王で、背番号は1。高校では投手で、2年生だった57年のセンバツでは優勝投手にもなっている。1年目から打ちまくって新人王に輝いた長嶋とは対照的に、プロは内野手としてのスタートとなった王は開幕から26打席ノーヒット、初安打こそ本塁打で飾ったものの、その後も足踏みが続いた。
中学時代、まだ右打者だった王少年に、左打席に立つことを進めた
荒川博が巨人の打撃コーチに就任したのが62年。マンツーマンの猛練習を経て誕生した“一本足打法”で本塁打の量産体制に入ったのは7月のことだった。王は初の本塁打王に。すでに長嶋は首位打者2回、本塁打王2回。急成長した王が長嶋と並んだことが、無敵の巨人を築き上げていく。
そして20世紀の最後に
セ・リーグの本塁打王は、王の独壇場となっていった。長嶋も負けじと首位打者、打点王に輝く。巨人は65年に優勝、日本一を飾ると、そこからペナントレース、日本シリーズともに9連覇。V9という空前絶後の黄金時代を謳歌する。
連覇が途切れると、現役を引退した長嶋は巨人の監督に就任。その75年、巨人は初の最下位に沈んだ。長嶋が監督を退任し、王が現役を引退したのが80年。王は助監督を経て84年から監督を務めたが、長嶋と同様、日本一のないまま監督を退任している。
プロ野球を人気スポーツへと昇華させた名選手2人は、監督としては苦しい時間が長かった。長嶋が初めて監督として日本一となったのが巨人2期目の2年目、94年。同率で並んでいた
中日との最終戦、いわゆる“10.8”でリーグ優勝が決まるなど、やはりドラマチックだった。その翌95年に深い低迷に沈んでいたダイエーの監督に就任したのが王だ。屈辱の日々を経て、ダイエーを初優勝、日本一に導いたのが99年。この日本一は、王監督にとって初の日本一でもあった。
そして、20世紀を歩んできたファンは、“ON”とともに20世紀を締めくくることになる。2000年の日本シリーズで、長嶋と王は監督として日本一を争う。この“ON対決”、20世紀のプロ野球を知るファンにとっては、勝敗よりも、対決そのものに価値があったのではないか。
写真=BBM