プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 封印した最強の宝刀
今でこそ、その使い手は多く、一発で「あの球はフォークボールだ」というのが分かる。だが、その名前どころか存在すら知られておらず、“魔球”と言われた時代があった。その最初の使い手であり、半世紀を超える時間が経過した現在でも最高の使い手と言われるのが、1954年に中日を初の優勝、日本一に導いた杉下茂。いわゆる“涙の日本一”の立役者だ。
少年期から野球はやっていたが、体が弱く、
「“青びょうたん”とか言われていました」
と笑う。のちに肺の疾患が判明して、
「ランニング嫌いで通っていました。あんな苦しいものはなかったから。そのかわりに腹筋や背筋を鍛え、投げ方も工夫したんです」
と振り返る。そして応召。復員し、いすゞ自動車に復帰すると、球が急に速くなっていた。
「ほふく前進から上体だけ起こし、半身の姿勢で横から(手榴弾を)投げるんですよ。重い鉄の塊を腕の力だけで投げても、うまくいかない。遠心力を使わないと、どうにもならんのです」
そこで、帝京商で英語を習っていた恩師の天知俊一と再会。明大専門部で野球に打ち込むようになった頃に天知から、メジャーで開発されたフォークの握りだけを教わった。
「お前は指が長いから2本の指で挟むフォークという球を投げてみないか、と。そこからは自分で試行錯誤です。物資が不足して少なかったから、縫い目がボロボロになって球を縫って使っていました。キャッチャーではなく、バックネットに向かってね」
49年に天知が監督に就任した中日へ。
「東急との試合で大下(弘)さんにカーブのサインでスピードを抜いたフォークを投げた。それで捕手の野口(明)さんが『おもしろい変化するな』って言ってくれて使い始めたんです」
2リーグ制となった翌50年に27勝。一躍、エースに名乗りを上げた。翌51年の開幕前、サンフランシスコ・シールズのキャンプに参加。
「フリー打撃で、力があるから飛ばすでしょ。この野郎と思ってフォークを投げ始めたら、クルクル空振り。オープン戦でも登板したんですが、フォークのサインが出ない。要求しても首を振られる。向こうのキャッチャー、ヘタクソだから捕れないんですよ(笑)」
このとき、シールズとの契約の話もあったというが、天知監督から「絶対みんなと一緒に帰ってこい」と言われていたため帰国。実現していたらプロ野球の歴史は変わっていただろうが、
「あの頃は人種偏見が凄かった。あの中でやりたくない、というのはありましたね」
迎えたシーズンは28勝で初の最多勝。だが、ほとんどフォークボールは投げなかったという。
“打撃の神様”vs.“フォークの神様”
捕手のパスボールを恐れたからもあったが、
「そんなごまかしで打者と勝負するのは男のやることじゃない」
という哲学があった。それを貫くことができたのは、しのぎを削った国鉄の
金田正一も「べらぼうにストレートが速かった」と語る速球があったから。フォークを投げるのは見せ球としてだけで、投球は試合の終盤になっても球速が落ちない速球が中心だった。そして何より、
「“神様”用のボールだったからね。それも、絶体絶命のとき以外は放らない球でした」
“神様”とは、
巨人の“打撃の神様”
川上哲治だ。そして、その川上をして「キャッチャーが捕れない球を打てるわけがない」と言わしめた。
「プロに入ったときから『いつか、あの“神様”を倒して日本一の投手になるんだ』って思っていましたからね」
それが実現したのが54年だった。32勝、防御率1.39で投手2冠。273奪三振もリーグ最多で、優勝の立役者となってMVPに。西鉄との日本シリーズでもフォークを投げたのは、
「大下さんだけ。豊田(泰光)も第1戦の2球目、中西(太)にも1球だけです」
という。そして3勝1敗。日本シリーズでもMVPに輝いた。通算215勝を積み上げ、大毎で引退。大正生まれのため名球会には入っていないが、その後は投手コーチとしての手腕を発揮。まだまだ元気な“球界の至宝”だ。
写真=BBM