昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 バッキーに退団のウワサ
今回は『1968年10月14日号』。定価は60円。
3回にわたって9月17日から19日までの阪神─
巨人4連戦を紹介した。球史に残る決戦は、阪神の3勝1敗で終わったが、痛かったのは、勝ち越した阪神サイドだった。
18日の第2試合で巨人・
荒川博コーチを殴ったバッキーが右手親指を骨折し、シーズン絶望。今のように中6日の時代ではない。阪神は、
江夏豊、村山実、バッキーの三本柱をフル回転させながら急上昇してきただけに、その一角が欠けたのは、大きな痛手だった。
以後、決して一気に負けが込んだわけではないが、巨人との差はジワジワと離れていった。
阪神にとって事実上の終戦となったのが、9月28、29日、後楽園での対巨人3連戦だった。
28日の第1戦は、先発・江夏の乱調で3対7で敗戦。8回には巨人のライト・末次がライナー性に打球を地面すれすれでキャッチしたが、これに阪神が「ワンバウンドじゃないか」と猛抗議。阪神・藤本定義監督は「あの審判を代えないと試合はできない」と、一時は放棄試合も辞さぬほど激怒した。
試合後にも審判室に飛び込み、「(ライナーの
ジャッジした)田代ちゅうのはどれや。あんなアウトがあるか。お前があすで出てきよったら、うちは試合せんで」と一喝した。
藤本の怒りは、このワンプレーからだけではない。もともと「東京の審判は巨人寄りのジャッジをする」という先入観(確かに東では巨人寄り、西では阪神寄りの傾向はあったらしい)があり、ジャッジをめぐるトラブルは頻繁にあった。
この日は、江夏がストライク、ボールのジャッジに神経質になって、何度か球審に確認していた。
試合後、江夏は「大阪と東京ではまるでストライクゾーンが変わっている。投げづらいのは確かです。ただ、それを言い訳にしたくない」と話していた。
阪神側からは「江夏が投げづらいように後楽園のマウンドをいつもより低くしていた」とも言っていたが、これが本当かどうかは分からない。
ただ、巨人が江夏対策を徹底的に行っていたことは確かだ。絞り球を決め、バントの構えで揺さぶるなどし、それが奏功した試合ではあった。
江夏にしたら「グチャグチャ、面倒くさい」と思ったかもしれないが、それがV9野球でもあった。
翌29日はダブルヘッダーで1試合目は阪神・村山実が2失点完投勝利(3対2)。そして2試合目、もう負けられない阪神は、またも江夏を先発させた。
江夏もリベンジとばかり6回まで無安打と好投したが、1対1で迎えた延長10回、1戦目でも江夏から2ランを打っていた
高田繁がサヨナラヒット。
試合後、江夏はベンチ裏の薄暗い通路でうずくまり、しばらく動かなかった。
巨人・
川上哲治監督は上機嫌だったという。
シーズン終盤の阪神の風物詩のようなものでもあるが、まだ優勝の可能性を残しながら、ストーブリーグが始まった。
負傷で離脱中のバッキーだ。「退団するのでは」というウワサが書きたてられた。もともと、阪神のシブチンもあって、いくら勝っても給料が上がらない(バッキーはそう思っていた)と、バッキーは不満たらたら。契約更改のたびにもめ、前年も一度は「ワイフの義父とアメリカで食品会社をやろうと思っている。今シーズン限りで日本を去りたい」と言っていた。
この年も、乱闘事件までは、
「トレードされるなら巨人以外行かない。あのチームに行けば、いつでも20勝できる。マネーもいいしね」
と記者たちに公言していたという。
ここまでバッキーは13勝14敗。おそらく大幅な年俸ダウンになるはず。そのとき、バッキーがどう判断するか。あるいは、そもそも、その前に阪神が解雇してしまうのでは、とも言われていた。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM