プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 12球団トップのチーム219本塁打
1985年の
阪神は「土台作り」のはずだった。そう連呼していたのは、就任したばかりの
吉田義男監督だ。ただ、その口グセは、それまでの20年間、
巨人のライバルと言われ続けながらも、優勝とは無縁だった阪神にあって、負けたときの免罪符を、あらかじめ用意しているようにも見えた。
だが、選手たちの印象は違っていた。斬り込み隊長の
真弓明信は春のキャンプで「ほか(のチーム)と、そんなに見劣りせんやろ。ワシら、勝てるんやないか?」と、つぶやいたという。とはいえ、まだまだファンは阪神の優勝など、しばしば口にして、夢に見ることはあっても、現実のものとなるとは思っていなかっただろう。
そんな雰囲気が変わったのが、4月17日の巨人戦(甲子園)だったことは間違いない。3月に開幕する近年の感覚では想像しづらいが、まだ開幕から4試合目のことだ。その7回裏、「ストレートを待って、ハードに叩くことだけを考えた」三番のバースが、バックスクリーン方向へシーズン第1号となる逆転3ラン。これに、「あの打席は、まったく平常心で入ったと思いますね」と振り返る四番の
掛布雅之が、同じくバックスクリーン方向へソロで続く。
さらに五番の
岡田彰布も「もうインコース(の速球)は投げてこんやろ」と狙いを絞って、みたびバックスクリーン方向へソロ。この“バックスクリーン3連発”が、祭りの号砲となる。
その気になった(?)ファンの猛烈な後押しもあって、阪神はリーグ優勝。日本シリーズでも黄金時代の
西武を破って、2リーグ制となって初の日本一にも輝いた。そんな阪神の、安定感というよりは、妙に安心感のあった打線は、12球団トップの219本塁打。そのうち、クリーンアップに並ぶバース、掛布、岡田、そして骨折で1カ月ほどの離脱もあった斬り込み隊長の真弓までが、30本塁打を超える。これはプロ野球で3度目となる快挙でもあった。

阪神・掛布雅之
この4人のうち、最古参は掛布だ。ドラフト6位という下位での指名ながら、この85年は六番打者として60打点をマーク、勝負強さを発揮した
佐野仙好と争って、2年目の75年には三塁のレギュラーに定着。もともとは中距離ヒッターだが、
田淵幸一が西武へ去ってからは、四番打者として本塁打を狙い、ファンの期待に応えようとした男だ。

阪神・真弓昭信
その田淵を含む大型トレードの1人として移籍してきたのが真弓。その79年に遊撃で、首位打者に輝いた83年には二塁で、そして85年には外野で、プロ野球2人目となる3ポジションでベストナインに選ばれた万能選手だった。

阪神・岡田彰布
生粋の大阪人で、ドラフトでも相思相愛だった岡田が戦列に加わったのが80年。大学までは三塁が定位置だったが、掛布の存在や
ブレイザー監督の方針もあって、なかなかチャンスに恵まれなかったが、1年目から新人王に輝き、翌81年からは二塁で定位置をつかんだ。

阪神・バース
推定年俸2000万円という、助っ人としては破格の安さでバースが入団したのが83年だった。翌84年オフには契約が解除される可能性もあったが、このときは吉田監督が「絶対に必要」と断言、再契約に至っている。
暗黒期の序章
そして迎えた85年。打率.350で首位打者のバースに岡田が8厘差の2位で続き、真弓は5位。掛布も打率3割を突破した。バースは54本塁打で独走の本塁打王。3位からは40本塁打の掛布に岡田、真弓と続いた。さすがに一番の真弓は100打点に届かなかったが、134打点のバースは打点王、100打点を超えた掛布と岡田が4位と5位に並んだ。
バースはプロ野球6人目の三冠王。バースは翌86年も2年連続で三冠王に輝いたが、すんなりと勝てないのも、このチームらしい。その86年は3位とAクラスを維持したが、続く87年は最下位に転落。歓喜の日本一は、“猛虎”の黄金期ではなく、“ダメ虎”と揶揄される暗黒期の始まりだった。
88年シーズン途中にバースが退団、オフには掛布が引退。残った岡田と真弓は奮闘を続けたが、岡田は93年オフに自由契約となり
オリックスへ。そして95年オフ、阪神を戦力外となった真弓とともに、現役を引退した。
写真=BBM