プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 堅実な上位打線と荒っぽいクリーンアップ

1982年、近藤監督の下、リーグ優勝を果たした中日
この21世紀に、野武士、と言っても、若い人はピンとこないかもしれない。とっくの昔に武士はいなくなり、武士を描く時代劇もテレビの地上波で見かけることが少なくなっている。ただ、20世紀には、1990年代までは毎日のように新作の時代劇がテレビで放映されており、さらにさかのぼれば、戦後の復興期などは、時代劇の映画は娯楽の中心にいた。
プロ野球でも、50年代に九州で黄金時代を築いた西鉄が、その豪快な野球で“野武士”と呼ばれた。その後は、
巨人が緻密な野球でV9という絶頂を極めてからは特に、荒々しい野球は勢いを失っていく。そんな82年、“野武士”が帰ってきた。「守りの野球は、もう古い。これからは攻撃野球だ」と“野武士野球”を打ち出したのが中日の
近藤貞雄監督だ。エースナンバー20を背負う
星野仙一は衰えを隠せず、
鈴木孝政はクローザー失格とされ、
小松辰雄は開幕投手となったものの故障離脱と、剛速球で鳴らした2人の右腕も計算できない。そんな中日にあって、相棒のバットが武士の魂とばかりに、打線は暴れ回った。
最古参は四番打者の
谷沢健一だ。76年に巨人の
張本勲とのデッドヒートを制して、わずか6糸差で首位打者に。その後はアキレス腱痛に苦しんだが、80年に復活の首位打者。天性の打撃テクニックを誇る巧打者だが、復活してからは長打力も兼ね備え、この82年には勝負強さも発揮した。
そんな谷沢に五番打者として続くことが多かったのが
大島康徳。翌83年に36本塁打を放ってプロ15年目の本塁打王となった長距離砲だが、この82年は半分の18本塁打。谷沢も珍しく打率3割に届かないなど、ともにキャリアハイではない。だが、逆説的ではあるが、それが“野武士野球”らしさなのかもしれない。
六番が多かった
宇野勝は初の大台クリアとなる30本塁打。前年の81年には遊撃守備で凡飛を捕り損ねて額に当てる“ヘディング事件”で沸かせた(?)好漢が長距離砲として覚醒したシーズンで、84年には37本塁打で
阪神の
掛布雅之と本塁打王のタイトルを分け合うことになる。
好漢なら
モッカも負けていない。球団史上もっともファンに愛された助っ人は、主に三番打者として来日1年目にして全試合に出場、リーグ5位の打率.311で荒っぽい打線を支えた。
そんな打線のリードオフマンは、時代劇の眠狂四郎のように、打席でバットをクルクルと回す“円月打法”の
田尾安志。この時代には珍しく塁間を駆け回る韋駄天タイプではなかった。だが、最終戦の5打席連続敬遠で首位打者には届かなかったが、当時は表彰されていた最多出塁のタイトルを獲得するなど、抜群の出塁率を誇った。続く二番打者としてブレークしたのが
平野謙。プロ野球記録を更新する51犠打で田尾の進塁をアシストしている。
司令塔の中尾がセ・リーグ初の捕手MVP
中日が初めて首位に立ったのが7月7日。不振に苦しんでいた谷沢と大島の復活が原動力となり、その後は巨人と激しく王座を争っていく。巨人は10月9日に全日程を終了。中日は最終戦となった10月18日の大洋戦(横浜)に圧勝して優勝を決めた。勝ち星では巨人に届かなかったが、勝率で8厘だけ上回っての僅差。引き分けはリーグ最多の19で、“野武士の首領”近藤監督の勝てずとも負けない采配が、最後の最後で優勝を呼び込む。
優勝が決まる最終戦では緊張するナインにビールを勧め、真っ先に自らが飲むような豪快さの裏には、常に緻密な計算があった。これを支えたのがバッテリーだ。左腕の
都裕次郎が16勝を挙げ、フォークボーラーの
牛島和彦がクローザーを務めて、ともにブレーク。司令塔に定着した
中尾孝義は打っては18本塁打もあってMVPに。セ・リーグでは初めてとなる捕手のMVPだった。
日本シリーズでは初優勝の
西武と激突し、2勝4敗で2度目の日本一は逃した。2勝2敗で迎えた第5戦(西武)の3回表、安打の打球が審判に当たって中日が先制点を逃す“石ころ事件”がシリーズの流れを変えたと言われるのも、どことなく82年の中日らしい。
写真=BBM