プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 駒沢を去り、怪童が来る
映画が娯楽の中心だった時代。東京の駒沢にプロ野球を開催する野球場があり、そこを“棲家”とする東映フライヤーズというチームがあったことは、
張本勲を紹介した際に触れた。北海道に拠点を置く
日本ハムのルーツだ。戦後、プロ野球が復活の狼煙を上げた1945年の東西対抗戦で、新球団のセネタースとして
颯爽デビュー。“青バット”
大下弘の本塁打は復興の象徴となる。のちに
大杉勝男の師匠となる
飯島滋弥も創設メンバーだった。
47年に東急フライヤーズとなると、翌48年には映画会社の大映が設立した新球団と合併して急映に。そのオフには大映が金星スターズを買収したことで東急に戻り、チームが東映となったのは2リーグ制となって5年目の54年のことだった。ただ、2リーグ分立で新球団から戦力を大量に引き抜かれ、球団と衝突した大下は52年シーズン開幕後に西鉄へ移籍。セネタース時代とは別のチームといえるほど選手の顔ぶれは変わっていた。
1リーグ時代からの貴重な存在で、“ヨネ・ボール”と呼ばれた落ちる変化球を武器にした
米川泰夫がエースで、大下の交換相手だった
深見安博は52年にプロ野球で唯一の2チームにまたがる本塁打王に。53年シーズン終盤に駒沢球場がオープン。チームが東映となった54年に入団したのが“ミスター・フライヤーズ”
毒島章一で、その9月から練習に参加したのがテスト入団の土橋正幸だった。
生粋の江戸っ子でもある土橋は着実に力をつけて、テンポのいい投球でエースに、そして“暴れん坊”たちを引っ張る存在に成長。毒島は温厚な人柄と安定感のある攻守走で“暴れん坊”たちに頼られる存在に。ただ、いつも暴れているタイプより、こういうタイプが怒ると一番コワイ。抜群のキャプテンシーで、荒くれ者たちをまとめていった。ちなみに、56年に投手として入団したのが
八名信夫。腰を骨折して3年で引退、親会社の東映で悪役俳優のレジェンドとなった男だ。
59年には張本が入団して新人王に。61年には
巨人に黄金時代を築いた
水原茂監督が就任して、チームも2位に浮上する。東映は着実に優勝へと近づいていった。だが、東京都の命令で、64年の東京オリンピックのために駒沢球場を去ることを余儀なくされる。捨てる神あれば拾う神あり。その61年の夏に、2年生ながら浪商高のエースとして決勝戦を完封して優勝投手となった“怪童”尾崎行雄が中退して入団。舞台は一転、土埃の舞う駒沢から神宮へと移ったが、東映は快進撃で初の優勝を決める。シーズンの司令塔は
安藤順三だったが、
阪神を下した日本シリーズでは、土橋と、バッテリーを組んだ
種茂雅之がシリーズ史上唯一のダブルMVPに。これが東映の、最初で最後の栄冠だった。
メジャーにも例がない5者連続弾も
実は水原監督に反発する選手たちも少なくなく、リーグ優勝の際には胴上げをボイコットしようという不穏な動きもあったという。これは毒島と張本がベンチ裏に帰りかけた水原監督を引っ張り出して、無事に胴上げ。そんなチームだから、成績が低迷しても武勇伝には事欠かない。乱闘で2度の無期限出場停止処分を食らった“ケンカ八郎”
山本八郎は日本一イヤーの62年オフに近鉄へ移籍したが、62年に“韓国球界で最強の捕手”との触れ込みで入団した
白仁天も乱闘の常連。65年に入団した大杉の武勇伝に関しては、さすがに別の機会に譲る。
そんなチームで頭脳的なプレーを見せて内野陣の要となったのが67年に入団した
大下剛史だ。オフに毒島が引退した71年もチームは低迷したが、5月には代打満塁本塁打の
作道烝から一番に戻って大下、
大橋穣、張本、大杉と、メジャーにも例がない5者連続本塁打もあった。
映画不況の深刻化から、パ・リーグで前後期制が導入された73年にはチームが日拓に。後期には土橋が監督に就任したが、1年で日本ハムとなると“東映カラー”の払拭が図られ、かつての主力が次々に放出される。2リーグ分立で“別のチーム”となったフライヤーズは、ファイターズとして“別のチーム”に変貌。ただ、地元の
広島へ移籍して初優勝に導いた大下のように、多くが新天地でも活躍を続けた。
写真=BBM