プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 先発でも、救援でも
1978年に初のリーグ優勝、日本一を果たしたヤクルト。2度目の優勝は92年、日本一はリーグ連覇の93年で、その間、Aクラスは80年の2位と91年の3位と2度のみで、雨を呼ぶツバメのように低空飛行を続けていた。80年代に入り、日本一イヤーに活躍した
安田猛、
松岡弘の左右両輪は故障に苦しみ失速していく中で、新たな左右両輪としてチームを支えたのが、左腕の
梶間健一であり、右腕の尾花高夫だった。
梶間はドラフト2位で77年に、尾花はドラフト4位で翌78年にヤクルトへ。ともに1年目から一軍のマウンドを踏み、日本一イヤーに梶間は阪急との日本シリーズで3試合に登板、第5戦(西宮)では先発も務めたが、1年目の尾花はペナントレースで中継ぎ登板による1勝のみ。それでも尾花は、ヤクルトひと筋14年の中で、野球をやっていてよかったと思ったのは、その1年目だけだという。それだけ長く苦しい80年代だったのだ。
ともに先発、救援と役割は固定されず、チームのために投げまくった。79年の最下位から一躍、2位に浮上した80年に、梶間は
阪神キラー、尾花は
巨人キラーとして貢献した。自己最多の15勝を挙げた梶間は、そのうち7勝を阪神から、尾花は8勝のうち5勝を巨人から挙げている。

ヤクルト・梶間健一
尾花が初の2ケタ12勝を挙げたのが82年だったが、7イニング以上を投げて勝利投手にならなかったのが11試合あり、そのうち9試合で敗戦投手となり、1点差で敗れたのは7試合。打線の援護があれば20勝も夢ではなかったはずだが、不満は口にしなかった。81年から2年連続で6勝に終わっていた梶間も、83年に14勝と復活。以降3年連続で2ケタ勝利も、その3年目の85年にはリーグ最多の17敗を喫した。尾花も82年から4年連続2ケタ勝利。自己最多の14勝7セーブをマークした84年は、梶間は12勝2セーブで、ヤクルトの全51勝のうち35勝は2人の活躍によるものだ。
だが、85年の梶間に続き、尾花は86年からは3年連続でリーグ最多の黒星を喫している。この3年間、独特の変則フォームが腰への負担となっていた梶間は、椎間板ヘルニアで苦しんでいた。88年に1勝を挙げたものの、それが最後の勝ち星となり、オフに現役引退。翌89年には尾花が11勝を挙げたが、これが最後の2ケタ勝利となった。
尾花も満身創痍で、91年オフに現役引退。皮肉にも、その翌92年にヤクルトはリーグ優勝する。ただ、生涯2203イニングを通じで押し出し四球はゼロ。その抜群の制球力は球史に残る。
ベテランとなって初の表彰&劇的弾
低迷を続けながらも、陽性のキャラクターが続々と入団して、チームの明るさだけは抜群だった80年代のヤクルトだったが、そんな80年代にとどまらず、70年代から90年代にかけて、ヤクルトひと筋20年を超える打の左右両輪が杉浦享(亨)と
角富士夫だ。杉浦はドラフト10位という下位指名で71年にヤクルトへ。角はドラフト2位で75年に入団し、ともに78年の優勝、日本一にも貢献した。
全試合出場は杉浦が82年、角が84年で、いずれも1度のみ。80年代の前半までは、主砲は
大杉勝男で、後半は
広沢克己や
池山隆寛だったが、鋭い打球で沸かせた杉浦は85年に35本塁打を放ち、ホットコーナーを担った角はレオンやホーナーら助っ人の長距離砲とのポジション争いを経ながらも、堅実な攻守で生き残っていく。そして、90年代に入ると、それぞれの存在感を強烈に発揮していくことになる。

ヤクルト・角富士夫
ヤクルトがBクラス脱出に成功した91年に、角はプロ17年目にして初のゴールデン・グラブ。代打に回っていた杉浦は翌92年、ペナントレースは18試合の出場に終わったものの、
西武との日本シリーズ第1戦(神宮)の延長12回裏にシリーズ史上初の代打サヨナラ満塁本塁打を放った。
最終的にヤクルトは接戦に次ぐ接戦の末に日本一には届かず、杉浦は続く93年の日本一を見届けて現役引退。右の代打として活躍していた角は、腰痛もあって、その翌94年オフにユニフォームを脱いだ。
写真=BBM