プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 阪急に革命を起こしたスペンサー」
西本幸雄監督の下、1967年に創設32年目の初優勝を飾った阪急。いわゆる“灰色の時代”から一転、黄金時代を突き進んでいくことになる。日本シリーズではV9
巨人に及ばなかったが、以降リーグ3連覇、71年からも2連覇。初の日本一は
上田利治監督2年目の75年で、以降リーグ4連覇、3年連続で日本一に。84年のリーグ優勝が、阪急としては最後の歓喜となった。昭和とともに歴史を終えた阪急の歴史は、昭和で振り返ると分かりやすい。昭和40年代から50年代の20年間でリーグ優勝10回、日本一4回。まさに黄金時代だった。
阪急の終焉とともにユニフォームを脱いだこともあって、投打で阪急の象徴的な存在となったのが
山田久志、
福本豊だが、初優勝の67年に、この両雄の姿は、まだない。63年に西本監督が就任、翌64年に助っ人のスペンサーとウインディが入団すると、阪急は徐々に変わり始める。
特にスペンサーのアグレッシブなプレーは衝撃的だった。「プロ野球に革命を起こした」と評される巨人の
与那嶺要は「金具を向けてスライディングなんて絶対しないヨ」と胸を張るが、スペンサーは平然とスパイクの歯を立てる“殺人スライディング”が、まさに武器。1年目から36本塁打、2年目には南海の
野村克也と本塁打王を争う。だが、ラフプレーで敵チームから敵視されていたこともあって徹底的に歩かされ、いらだちからバットを逆に持って打席に立ったことも。10月に交通事故で離脱して野村の三冠王を許したが、38本塁打に加え打率.311もリーグ2位、出塁率.424はトップだった。
相手チームからは“怪物”と言われたが、チームメートからすれば“野球博士”。投手のクセを研究する、データを収集するなど、野球の理論に精通し、それを惜しみなく阪急ナインに伝えた。65年にはサイクル安打も達成したが、その概念すらなかった時代。誰も取材に来ず、自ら記者を集めて、その価値を説明したことも。67年は30本塁打のスペンサーに加え、ウインディも25本塁打で初優勝に貢献している。
初の日本一も2人の助っ人が支えた。74年オフ、上田監督が直々に渡米して獲得したのが
マルカーノとウイリアムスで、マルカーノはパワーと巧打を兼ね備えた勝負強い打撃、堅実な二塁守備だけでなく、片言の日本語でムードメーク、ウイリアムスはメジャーで“キャット”と呼ばれた外野守備の名手で、福本、
大熊忠義と鉄壁の外野陣を形成した。マルカーノは四番打者として78年に94打点で打点王に。だが、80年代に入ると世代交代が進み、
簑田浩二の成長でウイリアムスは80年オフに解雇、マルカーノも82年オフに
ヤクルトへ放出された。
オリックス日本一イヤーに輝いたニール
84年に阪急を最後の優勝に導いたのが
ブーマーだ。来日の前にヒザの手術を受けており、1年目の83年は本調子ではなかったが、それでもリーグ7位の打率.304を記録。身長200センチ、体重100キロという体格から大味なパワーヒッターに見えるが、本領は巧打にあり、一塁守備も堅実だった。ただ、やはり大爆発はVイヤー。37本塁打、130打点、打率.355で外国人選手としては初の三冠王に輝き、もちろんMVPにも選ばれている。
88年10月に阪急はオリックスへ球団を譲渡したが、オリックス元年の89年にも124打点、打率.322で打点王、首位打者の打撃2冠。ブルーウェーブ元年の91年まで残留し、翌92年にはダイエーで3度目の打点王に輝いている。
オリックスとなってからの栄光は95、96年の2年間のみ。オリックス初優勝の95年に入団した助っ人コンビが
D・Jとニールだ。D・Jは95年7月、8月と連続で月間MVPに選ばれ、8月8日の近鉄戦(ナゴヤ)から2試合にまたがってプロ野球記録に並ぶ4打席連続本塁打。翌96年には失速したが、それを補って余りある活躍を見せたのがニールで、32本塁打、111打点で本塁打王、打点王の打撃2冠に。巨人との日本シリーズでは全5試合で3安打に終わったが、その3安打すべてが2点適時打で、日本一に貢献したとしてMVPに選ばれている。
写真=BBM