すべて人が動く「アナログ」

エピソードに事欠かない川崎球場は、ファンから愛されたスタジアムだった
ロスト・ボールパーク。
当たり前のように試合が開催されていた球場が消滅してしまうのは、何とも寂しい限りだ。
11月3日、神宮第二球場が「野球場」としての最後の役目を終えた(東京都秋季大会準々決勝)。帝京高と日大三高による好カード。帝京高の勝利(2対1)で試合終了のサイレンを聞くと「ああ、終わったな……」と、哀愁を誘う場面であった。
こんな寂しい思いになったのは、2000年3月31日に閉場された川崎球場以来だ。
30年ほど前の話である。野球部員だった高校1年夏、神奈川大会の大会補助員として川崎球場に派遣され、スコアボード係を務めた。のちに電光掲示板となる同球場も、当時はすべて手書き。大きなボードがいくつもあり、試合前、特殊ペンキでベンチ入り全選手の名前を記入しておく下準備が必要であった。
スコアボードの中はエアコンがなく、蒸し風呂状態。校旗の掲揚台は屋外だったので、試合中、交代で何とか暑さをしのいだ。
イニングごとに、得点を入れるのはもちろんのこと、大会本部の内線電話で連携を取り、選手交代も速やかに動かなければならない。例えば、上段が先攻チームで下段が後攻チーム。階段を上がったり、下がったり……。吹き出す汗が止まらない。緊張感ある時間だった。すべて人が動く「アナログ」であった。
中学時代、一人の観衆としては、南海ファンとして、レフトスタンドでシーズン終盤のダブルヘッダーを応援したのが思い出だ。10月の消化試合であり、お客さんの数はまばら……。外野席まで設備投資が回らなかったのだろうか……。やや腐食しかけている木製のシートがまた、年季が入っていて良かった。
愛すべき「ダイニ」「ジンニ」
さて、神宮第二球場も昭和の香りがする、ノスタルジックなスタジアムだった。かつての川崎球場との共通点を挙げれば、手書きのスコアボードに、両翼91メートル中堅116メートルという狭い形状。本来ならば外野フライの打球が、本塁打になってしまう投手泣かせの球場だった。
また、右翼、左翼のポール際に達した低い打球はそのままフェンス際を転々することが多々あり、外野手は処理が大変。さらに、人工芝はカーペットタイプのため、クッション性に欠けるため、ダイビングキャッチは危険が伴う。守備側、攻撃側とも足元が滑りやすく、細心の注意が必要であった。
バックネット裏席に設置されている記者席は、せり出した二階席の真下。日が短い秋の第2試合では、次第に真っ暗になり、スコア記入も一苦労だ。照明設備がないため、大会運営側は常に「日没」の心配もしなければならなかった。エピソードを挙げればキリがないが、すべてを含めて、皆から愛すべき「ダイニ」「ジンニ」であった。
すでに、神宮第二球場ロス、である。
来年の東京オリンピック・パラリンピック後、明治神宮外苑地区の再開発は本格化していくことが予想される。隣接する学生野球の聖地・神宮球場(1926年開場)も、いずれは「その日」が訪れる。老朽化による「取り壊し→新球場建設」は、避けられない道。とはいえ、毎年、当たり前のように取材していた球場がなくなる現実を、受け入れられるのか――。今回の神宮第二球場の「最後の日」に接し、何とも言えない気分になった。
文=岡本朋祐 写真=BBM